通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
1 発展する函館商業
1 水産物流通構造の変化と商業の展開

日露戦争前後の函館の経済

内外貿易の推移

管外移出の動向

移出水産物とその取引

卸売市場の整備と函館海産商同業組合の設立

管外移入品の推移

卸売市場の整備と函館海産商同業組合の設立   P64−P68

 函館からの鮮魚介の移出を促進したものに、函館魚商株式会社の設立があげられる。明治36年刊行の『実利実益北海道案内』が、「函館魚商株式会社は著名の魚商を以て組織し、広く魚貝類の委託販売を営む。人称して之を魚市場と云ふ。魚貝類の沿海より集まるもの夥しく、毎朝大市を開く。魚貝は全道東西両海岸、及陸奥沿海より来る。函館港より毎年本州へ輸出する生魚七十万石と称す。此魚商の手を経るもの多し。盛なりと謂ふべし」と、述べているところである。
 函館は近世から消費都市であって、近隣から魚菜をもって商うものが多かった。明治22年には函館魚菜会社の設立が企てられている。創立委員は納代東平外9名で、鶴岡町30、31番地に設置を予定した。明治22年12月20日付の社則を修正し、明治23年1月23日付で北海道庁長官の認可をうけた『函館魚菜会社社則』によれば、第2条に、「農漁生産者及需要者ノ便宜ヲ図リ市場ヲ開設シ、広ク生魚、鳥類、介藻、塩物、干物、野菜、穀類、果実等ヲ蒐集シ、売買スルヲ以テ目的トス」とうたい、第11条に仲買人60戸を置くとし、第18条で、「仲買人ハ五十集、八百物商其他ノ需要者ニ代リ市場ニ集リ、直立人ノ呼直ニ応シ買取直段ヲ糶上クルモノトス」としているように、卸売市場の開設である。明治23年刊行の佐藤喜代吉『北海道旅行記』は、「魚菜会社は鶴岡町に在り。明治二十二年八月の設立にして魚菜販売の業を営む。資本金は四万円なり」と記しているが、その後の歩みは不明である。
 函館魚商株式会社は、魚商組合の刈谷鉄之助が、服部半左衛門、工藤嘉七と図って、明治32年10月(11月あるいは12月とするものもある)に、資本金2万5000円で、汐留町に設立された。これ以前から魚商組合によって市場が開かれていたが、明治32年の大火で、建物などが焼失したため、株式会社の設立が画策されたのである。また、神山茂編『高村善太郎傅』は、「この年、北海道庁は市場取締規則を設けて、市場の取締に乗り出すことになった。この取締は衛生方面を主としたので、警察部がその衝に当っていた。今迄のような野天で勝手に魚の取引が出来ず、一定の建物と場所と衛生的な設備とを具備するのでなければ、魚を売買する市場として認められなくなったから、それに相当な資金を要する訳である。そこで内澗組合が主体となって函館魚商株式会社という卸売市場会社を資本金二万五千円をもって創立し、その取引市場を汐留町七番地(地蔵町と汐留町との間、旧平田金物店地蔵町支店の裏手)に設けたのである。そして社長は、その頃海産商としても有名な服部半左衛門氏が就任したのであった」と、市場取締規則の制定を、会社設立の動機にあげているが、市場規則の制定は、明治33年のことである。
 『高村善太郎傅』によれば、函館魚商組合の設立は、明治23年11月らしく、その内部では、旧来からの内澗組合系と弁天組合系との対立があったという。函館魚商株式会社設立時の組合長が、内澗町系の刈谷鉄之助である。高村善太郎は明治34年に副組合長、明治38年に組合長に就任している。
 『高村善太郎傅』は、弁天町系は函館魚商株式会社に対抗して、別に函館鮮魚合資会社を地蔵町1番地に設け、商権を争ったとしている。この合資会社は、32年11月(あるいは12月)に資本金5500円で汐留町、地蔵町に設立された函館魚商合資会社のことと思われる(『第十五回北海道庁勧業年報』によれば、明治34年末の「株主等人員」は176名を数えている)。函館魚商株式会社も、函館魚商合資会社も、明治32年の10月から12月の間に設立されたことは間違いないが、北海道庁発行の統計書が不備のため、確定できない。いずれにしろ、函館魚商株式会社は明治40年の大火に罹災したが、合資会社との競争にも勝ち、大正5年には豊川町57番地に1500坪の土地を購入し、中央に市場を設け、周囲に30戸の家屋を建て、問屋、仲買を居住させ、ますます業務の隆盛をみるにいたった。
 大正11年11月北海道庁は、卸売市場の事務を警察部衛生課から産業部商工課に移すとともに、市場規則の改正を図った。衛生公安的見地よりも、社会経済上、また、産業上の重要度がまし、生鮮食料品の安定的供給が望まれた。改正市場規則は大正12年8月に制定され、同年11月1日より実施された。函館魚商株式会社は、同年12月21日函館魚商市場株式会社と改称、翌13年9月には高村善太郎が社長に就任した。大正14年北海道庁内務部発行の『北海道商工要覧』(商工資料第1輯)は、改正市場規則にもとづく函館市の魚菜卸売市場として、函館魚商市場株式会社のほか、株式会社函館魚市場(音羽町64)、合名会社函館青物市場(海岸通62)、株式会社函館果実野菜市場(汐留町8)、函館果物野菜市場(鶴岡町63)をあげている。
 大正3年11月5日函館区役所において、函館海産商同業組合の創立総会が開かれ、定款の議決、役員の選出などを行った。函館海産物市場にかかわる海産物取扱商人の大同団結がなされた。彼らは前巻でみたように、物産商、荷請問屋、水産商、仲立業、肥料商などの業種毎に同業組合準則にもとづく準則組合を設立し、分野毎に活動していたので、大同団結は困難視されていた。

汐留町魚市場(『函館商工案内』大正4年)

海産商同業組合
 大同団結の中心をなしたのは、断然他を圧倒して勢力をもっていた函館物商産組合であった。この組合は、海産物の改良、取引弊害の矯正、運輸通商の発展に務めてきたが、準則組合では行政上の権威を欠いていたので、より強い強制力をもつ重要物産同業組合法による改組を唱導するものが、明治36年頃より次第に増加し、大正2年8月に同業組合設置を申請するに至った。
 これに対し、肥料商組合も同様の申請を行ったので、道庁より両者合同して組合を設立するよう指導があった。
 当時、北海道庁令第57号北海道水産物製造取締規則が施行されるにあたり、この規則が函館港の対中国貿易、ひいては海産物の一般取引に深刻な影響を与えることが危惧されたので、物産商組合は、函館商業会議所と提携して、北海道庁と協議して善後策を講じるとともに、海産物業者を挙げて対処することが急務であると認め、大正3年6月岡本忠蔵ほか16名により、重要物産同業組合法にもとづく函館海産物同業組合の発起申請書を北海道庁長官に提出し、同年9月認可の指令をえた。そこで物産商組合の正取締石塚弥太郎を発起人代表にし、諸般の準備をととのえ、同年11月創立総会を開き、翌大正4年2月農商務大臣より設置が認可された。初代組長は、石塚弥太郎、副組長は佐々木忠兵衛、土屋一郎である。
 この組合は、旧来の物産商、肥料問屋、海産問屋の各団体を網羅し、のちに函館海陸物産仲立商組合を併合した。大正14年発行の『函館海産商同業組合要覧』によれば、その組織は、函館全市を地域とし、本店、支店を問わず、海産物のうち塩干魚、肥料、海藻、干貝、魚油、缶詰類の売買(委託および輸出を含む)、および仲立を営業する者で組織し、缶詰、水産粉末肥料、刻昆布に限り、製造者の加入を認めた。当時の組合員総数は333名で、組合員は、営業の種別により海産部(塩干魚商)、肥料部、貿易部、移入委託部、仲立部、缶詰部、海藻部に分属した。
 業務としては、不正品の取扱の防止、営業上の申合わせの遵守、製品・荷造りの改善、販路拡張の調査研究、取引に関する紛議の調停、営業品の検査、取引規定の設置と励行などであった。
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