通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
1 発展する函館商業
1 水産物流通構造の変化と商業の展開

日露戦争前後の函館の経済

内外貿易の推移

管外移出の動向

移出水産物とその取引

卸売市場の整備と函館海産商同業組合の設立

管外移入品の推移

日露戦争前後の函館の経済   P45−P48

 北海道の経済は、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と、戦争を境に飛躍的に拡大し、その構造を変化させてきた。農林水産業や石炭など原料産業に依存していた植民地的経済体質の常として、好況期には一層好況に、逆に不況期にはその影響をより強く受けたため、ここで扱う日露戦争から大正期にかけての時期も、日露戦争の結果としての好況とその後の不況、第1次世界大戦による未曽有の好況と深刻な戦後不況と、好不況の波にもまれた。函館の経済も、その枠組の中にあったが、日露戦争によって露領漁業の策源地としての地位が確立するのを梃子に、黄金時代を現出する。すなわち、『函館市誌』が、「日露戦役、欧州大戦の二大エポック時代の影響は、大函館港商業の黄金時代を現出した。即ち、日露戦争後に於ける北洋漁業権獲得による漁業貿易、欧州大戦中に於ける大量外国輸出による函館商権の拡張を挙げることが出来る」としているように、日露戦争による露領漁業権の獲得と、第1次世界大戦期の外国貿易の拡張が、函館の未曽有の繁栄をもたらしたのである。
 前巻でもみたように、明治20年から30年代に、このような函館の発展が予測されていたかといえば、決して不安の要素がなかったわけではない。内陸部開拓の進展と鉄道網の拡大が有利に作用した小樽の躍進の下で、函館の北海道経済に占める地位は、相対的に低下していったからである。函館商業会議所調査の「最近十年函館経済界の趨勢」(『殖民公報』31号、明治39年7月)は、小樽の盛運を鼓吹して函館の衰運を説く者が近来ままみられるとし、彼らの言説として、次の二つを紹介している。

(1)函館は由来海産物の輸出港にして小樽は陸産物の輸出港たり。而るに本道の物産は水産に於て年々衰微の傾向あるに反し最近四、五年間に於て俄然陸産物の産出多額を占むるに至れり。随て函館は衰運に在るに拘はらす小樽は愈々隆運に趣きつゝあり。
(2)交通機関の発達に連れ小樽の商業区域は益々拡大せらるゝに反し函館の商業範囲は出産地と需用地との間に直取引開始され却て縮少されつゝありと。

 これに対して、函館商業会議所側は、陸産物が海産物を凌駕したことや、函館商圏下にある沿海諸港からの直交易が増加しつつあることを認めつつも、(1)函館は依然として本道と内地を結ぶ幹線通路であること、(2)樺太および露領出漁の根拠地にして、それら水産物の中央市場であること、(3)中国、朝鮮に対する本道水産物の輸出港であること、(4)津軽海峡をひかえる地理的関係から、近時発達しつつあるアジアとアメリカを結ぶ大陸間貿易に重要な役割を担えることをあげ、「如上の事実に依り却て今将に進歩の行程にあるを確認するのみならす、多年蘊蓄せる富と、此等交通機関の運用とを以て将来更に幾段の熾盛隆運を期待して疑はさる者也」と反論している。
 函館と小樽の比較については、明治40年の函館大火によって焼失したイギリスの函館副領事館の再建問題に関連しても、再建地をどこにするかで種々論じられている。明治43年5月14日付の函館副領事代理W・M・ロイズの次の報告は、その代表的なものである(イギリス外務省文書)。

 思いますに、副領事館を小樽に移転するという考えが始めに提案された時、戦争による即時の成果として小樽港における貿易は、好景気でした。そして小樽に注意をひくためにはどんなことも行われ、北海道第一の港として小樽の有利性と将来展望が賞賛されたのでした。(小樽には)大きな富の増大はありましたが、しかしながら一時的であり、現在は貿易においての最大の将来性は、北海道西岸よりも東岸のほうにあるように思われます。この件に関して意見を聞いてみると、各国の人びとが(イギリス人、フランス人、ロシア人、アメリカ人及び日本人)、この見解に同意しています。北海道の発展は、しかしながら、必然的に非常にゆったりとしたものになるでしょうし、函館が北海道東岸の財政的中心地であり、重要性が高まっている場所で、この地区の副領事館所在地に最適ですといって差し支えないようになるのは、何年もかかるでしょう。ほかにはどこにもイギリスの商社はなく、また設立されそうにもありません。函館港の改良工事はちょうど開始されたところで、港の繁栄には貢献するものになるでしょう。また、新しく提案された道庁所在地、札幌までの直通鉄道便が完成すれば、さらに繁栄することになるでしょう。札幌への近さが今や小樽が持つ唯一の有利性ですが、これも大量の積雪と北方ゆえの厳寒のせいで、冬期間は鉄道による連絡はしばしば数日間閉鎖される事実から、全く相殺されてしまいます。冬の厳しさのせいで、小樽は居住地としても同時に、望ましくありません。

 開拓使御雇外国人以来、地理的、気候的見地から太平洋側と日本海側の比較がおこなわれ、概して太平洋側の発展を重視する見解が多かった。ロイズの場合には、副領事館建設地として、多雪、寒冷な小樽の居住環境を心配しすぎている嫌いもあるが、函館の港湾改良や、太平洋岸経由の札幌との鉄道連絡を重視している点は同意できる。18か月間函館の副領事の職にあったH・G・パレットも、明治43年5月25日付「函館副領事館再建覚書」(イギリス外務省文書)で、基本的にはロイズの見解を支持し、「ロイズ氏の報告にある小樽についての注目点は、私も全く同感です。私は北海道のどの港も他の競争相手に対して、大きく繁栄して伸びていくところはないだろうと思いますが、どの港も大小はあれ、隆盛していくものと思います。しかし、ロイズ氏が言う通り、優位性はおそらく西海岸より東海岸のほうにあるようになるでしょう。函館はもちろんその中間にあります。ロイズ氏の小樽や道央部での積雪に関する注目点は、私自身の経験からも完全に支持いたします」と述べている。パレットの場合は、函館の経済的発展に関しては、やや消極的で、後背地の欠如、貿易の最重要部門が水産物とその製品にかたよっていること(イギリス商人にとって重要でない)、港が大きく拡張されそうもないことなどをその理由にあげている。
 これ以降、第1次世界大戦期にかけて、太平洋岸の諸港、特に後背の製鉄・製鋼・製紙業に支えられた工業製品や石炭の積出港である室蘭や農林水産物の積出港としての釧路の発展が目立ったが、函館の伸長は、予想を上回るものだったといえよう。
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