通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 函館の新宗教の展開 |
函館の新宗教の展開 P572−P576 昭和20年代において、人心の混乱・不安を背景に、雨後の筍のように、各地に誕生した新興宗教も社会問題化するようにつれ、次第に自然淘汰されていった。それに代わって、人びとの宗教的ニーズに応えて、高度経済成長期に入る昭和30年以後、急速に教勢を伸ばしたのが、立正佼成会や創価学会に代表されるいわゆる「新宗教」である。そもそも日本の仏教で民衆に最も大きな影響力を与えた「新宗教」としては、密教修験系、念仏系、法華系の3つがあげられる。戦後の新興宗教のうち約7割が法華系新興宗教であり、密教修験系がこれにつぎ、念仏系は皆無に等しい。法華系のおもなものには、霊友会・創価学会・立正佼成会などがある。 霊友会は、大正8(1919)年、法華信者の久保角太郎が法華信者で霊能者の若月チセを中心に、戸次貞雄とともに作った「霊の友会」に始まる。大正14年、数年立ち消えになっていた同会を、久保が小谷安吉とその妻喜美を説いて会を再発足させた。昭和4(1929)年、小谷安吉が病死、若月・戸次らが同会を去ったあと、小谷喜美は久保の指導で一人前の霊能者に成長した。昭和5年、久保は教典「青経巻」を作って、法華信仰と先祖供養を結合した教義を整備し、小谷が会長、久保が理事長となって布教活動を展開していった。日中戦争から太平洋戦争の間、宗教統制により新宗教の布教がほとんど停滞したなかにあって、この霊友会は戦争協力と国策奉仕につとめ、その教勢を伸張させた。 立正佼成会は、昭和13年、霊友会から分立した法華系の在家教団で、長沼妙佼が霊能者、庭野日敬が組織者である。庭野は昭和10年に霊友会に入信し、翌年長沼を導いて入会させた。長沼は霊能者となるため修行を積み、昭和13年、庭野と長沼は会長の小谷喜美の指導に反発して霊友会を離れ、大日本立正佼成会をひらき、布教活動を展開していった。昭和20年代後半には、東日本を基盤に、霊友会をしのぐ有力な法華系新宗教に発展した。その教義は、霊友会の法華信仰と祖先礼拝を結合した教義を継承してはいるが、個人の人格完成を強調する点など、霊友会系の新宗教のなかにあって独自なものといえよう。 昭和34年、同会は札幌・釧路・函館の3支部にブロック制を設置することで布教活動に乗り出す。函館支部は、長沼広至北海道教会長の指導のもと武田恵三郎支部長を中心に布教活動を始動させる。昭和39年から42年のことである。大川町に新道場を建設し、あわせて法座を従来の2法座から6法座に分割して、市内はもとより渡島・檜山方面にきめ細かい伝道の網をめぐらせた。それが功を奏し、昭和40年の支部会員は約2000世帯に達した。 こうした急速な教勢伸張の理由は、詳しくは後で述べるが、新宗教に共通した現世利益と先祖供養を中心にした独自の教義に求められる。 立正佼成会への入会動機と布教実践にかかるアンケートにみるように(図2−42)、昭和30年代の新興宗教に求めていた現世利益的な宗教ニーズと、「家」制度の動揺を背景にした先祖供養のニーズを着実にキャッチした立正佼成会が一気に2000世帯もの信者を獲得したのである。
函館支部および函館教会は、こうした信仰以外の外部的な難題を抱えたため、一時会員数の減少に陥ったものの、立正佼成会の結成の原点に立ち返って、真摯な伝道活動に努めている(『立正佼成会史』)。 一方、創価学会は、昭和5年、日蓮正宗信者の牧口常三郎と戸田城聖によって設立された初等教育の研究実践団体である創価教育学会に始まる。同会は、昭和12年から、日蓮正宗の講の形式をとる法華系新宗教として発展した。昭和18年、同会は神宮大麻を祀ることを拒否したため、国家神道と相容れない異端的な教義として弾圧され、牧口は獄死した。敗戦後の昭和21年、戸田は創価学会の名称で同会を再建した。それは、日蓮を末法の本仏、日蓮正宗総本山大石寺にまつる「大御本尊」(日蓮作とする板マンダラ)を礼拝対象に、江戸中期の大石寺日寛の大成した日蓮正宗教学と、プラグマテイズムを基調とする牧口の「価値論」の哲学および戸田の獄中体験に基づく「生命論」を結合した実践的教義を奉ずる信仰団体である。昭和27年には、宗教法人法に基づき創価学会として設立登記をおこなった。
以上みてきたように、新宗教が興起した理由は何であろうか。次の諸点が指摘されよう。第一に、戦後信教の自由が保障されたものの、既成教団側は民衆の要求に応じようとしなかったが、新宗教は逆に敗戦による精神的虚脱・物質的困窮に対し、治病・商売繁盛・家庭円満などの現世利益の欲求に応じつつ、現実の幸福の追求と宗教とを巧みに結びつけたこと、第二は、農村から都市への人口移動に乗じる一方、離村者のムラ的なものへの郷愁=連帯感の欲求を満たしたこと、第三に、座談会形式の布教活動を核としつつ、信徒個人が伝道者でもあるとして人生に生き甲斐を感じさせたこと、第四は生活規律を持ち青壮年層・女性を対象にしたこと、そして第五は、ブロック制の確立に示されるように、組織の近代化・合理化をはかるとともに現実的・日常的な祖先崇拝・供養を重視したことである。 |
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