通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 キリスト教の動向 |
キリスト教の動向 P569−P572 日本における第2次世界大戦前のキリスト教の信者数は約30万人で、そのうちプロテスタントが18万人、カトリックが12万人であった。それが、昭和29年末には、プロテスタントがほぼ横ばいの18万5000人なのに対し、カトリックは20万人と大きな伸びになっている。日本人が儀式や荘厳な気分を好むという傾向や、プロテスタントが教会の維持に多額の負担金を信者に課しているので、カトリックが伸びたのだろうと分析されている(昭和31年版『北海道年鑑』)。北海道では、戦後は全国と同様にキリスト教は大変な人気だったが、この時期になるとすっかり落ち着きを取り戻していた(同前)。各年の『北海道年鑑』により、昭和30年代以降の北海道のキリスト教の動きを、みておくことにしよう。30年代初頭の北海道のキリスト教の勢力は、教会数でいうと177、布教所が51で、信者数は、およそ2万4000人であった(昭和33年版)。 前述のとおり、戦後の著しい伸びが頭打ちになったため、各教団ではそれまで都市に偏向していた布教活動を農漁村や炭鉱地帯を中心に力を入れ始めたのが、大きな特徴である。プロテスタント系では、昭和30年から5か年計画の布教活動を「北海道開拓伝道」と名付けて開始した。昭和34年には日本の「新教(プロテスタント)宣教一〇〇年」を記念して各地で祝典が開かれたが、信者の減少傾向は止まなかった(昭和35年版)。 カトリック系も、それまでの都市中心という傾向から、都市の周辺部へと目を向けるようになった。函館でも、市の東部方面に住宅地が開発され、東部への人口移動を背景に、昭和31年、函館カトリック教会の湯川教会が駒場町に設立されたのは、そのひとつの例である。これにより、函館のカトリック教会も、元町、宮前町とともに3教会体制となった。
戦後のハリストス正教会は、冷戦体制のもとで、アメリカから主教を迎えるという事態になり、モスクワ総主教との関係を望む信者たちとの間に対立が生まれていた。その後在米ロシア教会とモスクワ総主教との関係が修復されるに伴い、昭和45年に日本ハリストス正教会もモスクワ総主教との関係が復活し、自治独立教会となった。これにより、日本の教区は3つに分かれ、函館は東日本教区に属することになった(牛丸康雄『日本正教史』)。 以上、北海道のキリスト教の大まかな動向を述べた。もっとも教勢の伸びたカトリック教会については、函館の様子をもう少し詳しく述べておこう。 国際的なカトリックの使徒職活動団体である聖ヴィンセンチオ・パウロ会が元町教会に昭和25年、宮前町教会に26年、湯川教会に31年にその協議会の設立をみている。この会では、経済的な困窮者、身体障害者、高齢者などの社会的弱者への救助、協力に尽力した。昭和35年には、元町教会が中心となって、日乃出町方面の弱者に物心両面の手を差し伸べ、児童厚生施設として「カトリック少年の家」を開設するに至った。 この函館における活動は、昭和46年の同会の総会(函館での開催)において、「慈善活動」か「福音宣教」の方針をめぐって対立が生じ、函館の同会は全国理事会を退会し、独自の活動を展開する道をとった。 また、病弱者や身体障害者への布教を目的にしたグロリア会が宮前町教会の援助で、昭和28年に設立された。同会は昭和56年の「国際障害年」を機に設けられた「カトリック障害者連絡協議会」にも加盟し、活発な活動を実践している(久保田恭平「函館における聖ヴィンセンチオ・パウロ会」)。 世界的にはすでに大正14年に開設されていた「カトリック青年労働者連盟」=「JOC」に、元町教会が昭和29年、宮前町教会が35年、湯川教会が45年に加盟した。昭和48年頃から、女性の活動が結婚などで低調になり、湯川教会一本にしぼられた後、51年に宮前町教会に拠点を移したのを機に、同教会に隣接して「働く人の家」をJOCの集会のためにオープンした(久保田恭平「函館におけるJOC」)。 函館の3教会はこのJOCの動きのほか、昭和37年開会のバチカン公会議で採決されたキリスト教一致運動=「エキュメニズム」の一環として、全世界の女性を中心とした「世界祈祷日」の活動にも参加している。 こうした会活動とあわせて、函館カトリック教会では、各種の施設の開設・経営にも力を尽くしている(久保田恭平「湯川カトリック教会」)。 前述した「少年の家」に併置して昭和48年に開設された「うみの星保育園」は、「少年の家」の共働きや内職家庭のために新設された施設である。また昭和50年に同じく「少年の家」の敷地内に、知的障害児通園施設としての「うみのほし学園」を開園した。知的な障害を持ちながらも、一個のパーソナリティ全体の発達を目指す子どもたちのための施設である。 また、「NHK函館放送楽団」(昭和25年から38年)とそれが発展した酒井武雄による「聖チェチリア混声合唱団」(昭和38年以降)、山岸淑子による「女声合唱団」(昭和40年以降)の社会的活動も特筆される。 このように、函館カトリック教会は、高度経済成長期を前後して、各種の会合や施設の開設・運営を目指して、広範な社会的活動を展開してきた。その活動はおのずと人びとの信仰心をとらえ、信者の獲得へとつながっていった。 |
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