通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 新たな青函圏への取り組み |
新たな青函圏への取り組み P355−P358 函館市は昭和42年10月、津軽海峡をはさんだ対岸の青森市と「青函経済圏促進協議会」を結成、お互いに経済発展のために協力し合うことを約束し、43年2月に2回目の会議を開いて具体案を検討、協力関係をスタートさせた。青函トンネルや高速道路などが開通したら、函館も青森も中央の文化・経済圏の強い磁力に引き寄せられ、ますます特色が薄れてしまう。東京、札幌のような大都市への集中がさらにひどくなり、青森、函館市は経済的な真空地帯になることも考えられる。こうした将来を見通して、困難な問題はあっても、この際お互いに助け合っていこうということになった(昭和43年2月15日付け「朝日」)。
また、青函航路の実態も港の出入貨物量は道内一を誇っているが、その90パーセントは、素通りするだけのフェリーと連絡船の荷物なのである。函館駅を利用する旅客にしても、駅の外に出るのは3分の1で大部分はホームと桟橋の間を通り抜けるだけの客が多かった。函館市民にとって、連絡船は「まち」のシンボルではあっても、生活感覚からはすでに遠のいていた存在であったのかも知れない(昭和49年10月8日付け「朝日」)。「たしかに、函館が、連絡船に象徴されるような意味で、北海道の表玄関だった時代は終わりましたよね」という矢野康函館市長の感想も、時代認識では一致している(昭和49年10月9日付け「朝日」)。 青函連絡船廃止問題や北海道新幹線問題など交通体系の大きな変革のなかで、新たな青函経済圏を模索する動きがでてきた。北海道東北開発公庫がまとめたレポートは、「青函地域の交流の現状と新しい青函経済圏の形成に向けての検討」として青函トンネル開通に伴う製造業、商業、観光面での交流拡大の可能性を具体的に探り、対応の仕方によっては新しい経済圏の形成も不可能ではないと結論づけた。札幌から仙台までの約600キロ間には核となる都市域が形成されておらず、ちょうどその中間にあたる青函地域に100万都市、経済圏が成立すれば両地域はもちろん北海道、東北全体をさらに浮上させることが出来るという発想が背景に込められている(昭和57年7月8日付け「道新」)。 同様の構想が、国の第4次全国総合開発計画に「青函インターブロック交流構想」として盛り込まれ、にわかにクローズアップされた。青函トンネルの開業を契機に青森、函館両地域間の広域交流を進め、仙台と札幌の間に第3の経済圏を形成することを目指す青函インターブロック交流構想の骨格が昭和62年12月20日までに固まった。北海道と青森県が連絡会議を設置し事務レベルで調整作業を進めてきたもので、2000年を目標年次として、青函トンネルに高速フェリー、新幹線などを組み合わせた交通ネットワークを形成、青森、函館両テクノポリスの交流などによる青函ハイテクベルトの形成、海洋関連プロジェクトの推進、広域観光ゾーンの整備など6つの分野にわたって大がかりな交流プロジェクトを推進、「青函新時代」を切り開く方針を打ち出している(昭和62年12月21日付け「読売」)。
しかし、このような新たな青函圏について「通常私たちが気軽に行ける範囲は一時間圏で、二時間を超えると抵抗距離になることから、四全総に言う交流が活発になるためには青函間は一時間圏でなくてはならない。そのためには津軽海峡が在来線ではなく、新幹線少なくてもミニ新幹線の採用が前提となる」という指摘がなされていた(平成元年3月13日付け「道新」)。 |
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