通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
2 産業構造の変化と新たな都市機能

港湾計画の推移と港湾機能の変化

函館山の保全と歴史的環境の活用

テクノポリス函館の推進と産業の振興

新たな青函圏への取り組み

函館山の保全と歴史的環境の活用   P351−P353

 昭和48年度に函館を訪れた観光客は298万人強と史上最高を記録した。この年NHKのテレビ小説「北の家族」が放映されたことに伴い、週刊誌などが函館の魅力を大々的に報道したためとみられ、前年度に比べ48万人多く19.2パーセント増と例年にない伸び率だった(昭和49年7月27日付け「読売」)。
 この観光ブームのなかで「函館は古さが見込まれた。それは間違いなく売り物である。であるなら、これを機会に函館山周辺、ことに西部地区の街並み、家並みを原型保存するのに努めてはどうだろう。明治の面影が、モルタル壁とアルミサッシ窓に変身するのは見るに忍びない。とかく、地元にいると、自分のエクボに気づかない。が、これは貴重な財産である。」、と指摘した記事は観光地としての原点をおさえている(昭和48年4月5日付け「道新」)。
 函館がこれまで観光地として知名度が高かったのは、函館山からの夜景のおかげであった。この函館山の観光開発は、登山道路の整備をめぐって幾度か論争になっている。函館山の自然は、戦前まで函館山要塞などの軍事施設があることによって人の立入が禁止されていたために保全されてきた。自然が破壊されはじめたのは皮肉にも戦後の昭和21年、山が一般に開放されてからだ。登山道路ができ、ロープウエーが開通して観光客も急激に増えた。開発が進み、山が形を変えてゆくたびに市民の登山道路に対する反対運動が繰り返された(第7編コラム17・50参照)。
 このような背景のなかで、山を1周できる観光道路の建設計画が本格化したことから再び反対の火が燃え上がった。問題の道路は昭和45年から建設中の道道函館停車場・立待岬線のうち千畳敷見晴台から立待岬までの2.7キロメートルである。南北海道自然保護協会は、「このまま工事を進めれば植物群も全滅する」と街頭で集めた9303人の署名簿と反対意見を添えて北海道知事に中止を申し入れた。ところが、これとは逆に函館市地域婦人団体協議会が「交通の渋滞を解消するためにも早急に周遊道路の開削を」という決議をして運動を始めた(昭和47年1月13日付け「道新」)。自然保護か観光開発か、市民の大きな関心を呼んだ函館山の周遊道路について函館市は、昭和48年の春に社団法人日本公園緑地協会に総合診断ともいえる函館山基本計画報告書の作成を委託した(昭和49年5月30日付け「道新」)。これを受けて函館市は、50年6月6日に「函館山緑地整備計画」の内容を明らかにした。これによると、函館山は全面積の3分の1を保有林に指定するほか、既存観光道路の一部も含め登山道路からはマイカー締め出しを目指すなど自然環境の保護、保全を最優先とする考えを提起した。一時、論争の的になった新しい周遊道路や新ロープウエー建設計画は完全に姿を消すなど、観光開発の余地をほとんど残さないという自然保護思想をはっきりと打ち出している(昭和50年6月7日付け「道新」)。
 しかし、新たな開発の余地をほとんど残さない函館山の保全計画は、観光業界に波紋を広げた。こうした業界の動揺に対して、緑化審議委員であり商工会議所会頭だった田中誠一郎は「今や函館山オンリーのような観光に頼ることは許されなくなった事実を観光業界は自覚すべきだ」と指摘した(昭和50年6月11日付け「道新」)。田中会頭の発言はその後の観光施策にとって象徴的であった。函館山以外の本格的な観光資源の発掘が市民による文化財保護への視線から始まったのである。旧北海道庁函館支庁庁舎の「北海道開拓の村」への移転問題を契機とする「函館の歴史的風土を守る会」の発足である。このような市民による文化財の保存運動は、行政の文化財への取り組みにも影響を与えたのである(『函館の歴史的風土を守る会会報』No.1、昭和53年2月23日付け「道新」、第7編コラム63参照)。この時期に、函館商工会議所が環境開発研究所に調査依頼していた「函館観光計画」が公表され(昭和53年3月17日付け「道新」)、財団法人・地方自治協会による『地方都市の個性と魅力に関する調査』なども発表された(昭和54年3月17日付け「道新」)。函館市は、青函トンネルや新幹線など交通新時代を迎えるなか、観光振興を目指して昭和55年1月、商工観光部に観光室を設けるとともに、初の観光基本計画策定作業を実施した。観光基本計画は、昭和57年4月5日の市議会経済常任委員会に報告され、「恵まれた自然と豊かな歴史的文化遺産の活用」をテーマにエキゾチックタウン(西部地区)の形成や、ウォーターフロントから函館山山麓にかけての散策道路の整備などを計画した(昭和57年4月6日付け「道新」、『函館市観光基本計画』)。
 このように、行政側は昭和50年代の観光立市とともに一応の観光の方向性を示したとはいえ、観光開発の実態はそれほどの進展をみなかった。それにひとつの火付け役をしたのが、皮肉にも青函連絡船の廃止に伴う連絡船ブームと青函トンネル開通に伴う青函博であった。「歴史とロマンあふれる街」、こんなキャッチフレーズで、函館が新しい観光開発の動きが活発化していた。ウォーターフロント開発をはじめ、函館山への日本一大型ロープウェー導入、ホテルの建設ラッシュなどである。函館ドックの危機や北洋漁業の衰退、青函連絡船の廃止など、とかく暗いニュースばかりが続いた函館経済が観光を核に活況を取り戻しつつあった(昭和63年5月9日付け「毎日」、図2−11参照)。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ