通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 亀田市との合併 |
亀田市との合併 P333−P336 字港地区の編入後も函館市から合併を働きかけられていた亀田村では、昭和28年には亀田村議会が村長を不信任し(「市村合併問題にからみ村内が混乱の極に達しているのに首長として何らの収集策を講じない」として)、対抗策として村長が村議会を解散、改選後村長が信任されるという動きもあったが、この時は村は合併しない方向で合併問題が終息した。その後も函館市からの働きかけは続けられたが、合併問題が進捗するのは、合併に対して賛成の立場を明確にした吉田政雄が亀田町長(昭和37年1月1日町制施行)に当選した昭和42年以降のことである。 この間、亀田川の上流で取水している函館市の上水道の問題が、亀田町の住民の生活の問題としてしばしば取りあげられている。昭和32年には「水道問題で難航 亀田合併」と報じられ(7月11日付け「道新」)、昭和38年には「市 上水道の分水を検討 亀田町に一日三千トン」(9月10日付け「道新」)、「亀田町への分水 ″時期尚早″で保留 市議会工営港湾委」(9月29日付け「道新」)、「上水道分水問題またお流れ 亀田町独自の事業」(10月30日付け「道新」)となり、翌年には「配水管亀田町に払い下げ市議会了承」(昭和39年11月5日付け「道新」)、昭和42年には「亀田町との行政提携 上水道分水きっかけに下水道、清掃など一体化へ」(8月6日付け「道新」)となってこの問題は一応の決着をみている。このことは、亀田町にとって昭和40年代の始めから顕著になった人口増により、住民の生活環境整備が追いつけない状況が深刻になっていたことの現れでもあった。「北海道新聞」は、「四万人の亀田町」という特集を5回にわたって連載、「(人口)三年間で急カーブ」「追われる教室、道路」「神山の衛生センター」「悩みの都市十年計画」「突き当たる合併」を取りあげて、都市化の波に悩む亀田町の実情を伝えた(昭和43年10月8日から13日付け「道新」)。 昭和43年9月14日に「亀田町函館市合併促進期成会」から町議会に「亀田と函館は本来唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係にあった、これを実らせなかったのは地域住民の怠慢であったと云える」との促進要望書が提出され、12月17日には町議会で「亀田町函館市自治振興調査特別委員会」(町議会議委員全員で構成)の設置が決まり、翌44年2月から委員会が動き始めたが、町議の改選で実働は、昭和45年に持ち越され、2月4日に第1回委員会で委員長副委員長を互選し、20日には亀田町函館市両市町自治振興調査特別委員の初会合が開催された。その後亀田の委員会審議は継続して開かれ、昭和48年6月15日の委員会は38回目の委員会が開かれた。この間、亀田町は昭和46年11月1日に市制へ移行していた。 昭和47年3月の定例市議会の市制執行方針で吉田市長は、合併問題について「種々の状勢を勘案して、四十八年秋をめどとして実現したい」と表明し、さらに翌48年3月の定例市議会でも「その後、『広報かめだ』における分析や、市内有志による陳情、署名運動などによって、大きく世論が盛りあがっていることは、ご承知のとおりであります」と述べ、自治振興調査特別委員会、総務常任委員会の結論へも期待感を表明した。
亀田市民による住民運動は、町時代から活動を続けてきた「亀田市函館市合併促進期成会」が、「我々はなぜ合併を主張するのか」とのチラシを各戸に配布して合併促進を呼びかけた。また、亀田市函館市合併を進める市民会議も結成され、「亀田函館の合併は住みよい地域づくりと明日の豊かな市民生活を目指してすすむ」などのチラシを配布し、日本社会党亀田支部は、吉田市長と市民会議の支持を表明した。一方、「合併に疑問をもつ会」も結成され、「合併には、多くの問題点があります。市民の生活を左右する合併問題は住民投票できめましょう」とのチラシを配り、9月25日には「自治体の合併については、理事者及び議会並びに市民参加のもとに処理すべきもので、合併の具体的な資料を市民個々に提示して町会毎に説明会を開催し、住民投票を実施して有権者の過半数をもって合併することが、最も民主的な方法であると固く信じて居ります」との請願をおこない、これに先立って「亀田市住民投票実施条例」制定請求書を提出していた。しかし、函館市議会は9月3日に、亀田市議会は9月7日に合併議案を可決しており、10月27日に亀田市議会は臨時市議会を開き、自治体合併に関する亀田市住民投票実施条例案は否決された。 昭和48(1973)年12月1日に亀田市は廃止され、その区域は函館市に編入された。「北海道新聞」は、この日の模様を「函館、亀田両市の合併により、1日から亀田市が消滅、道南の地に30万都市函館が誕生した。この日の新函館市は朝から亀田支所開所式、辞令交付、事務引継ぎ書調印式、祝賀パーティー、児童生徒交歓会と、あわただしい動き。……市内には″合併祝賀″の看板ひとつ見られなかった。″函館、亀田はもともと一つ″という意識があるためか、市民の受け取り方も冷静そのもので、お祭り気分の市当局者と好対照を見せていた」と報じた(昭和48年12月2日付け「道新」)。 これまでの合併で函館市域面積がどのように変わったかを示しておく(表2−1、図2−5)。人口については昭和14年の湯川町が約1万人、昭和41年の銭亀沢村1万人弱、昭和48年の亀田市6万6000人が増加した。函館市はすでに昭和6年で人口20万の都市となっていたが、昭和48年の亀田市との合併で、人口は30万490人となった。その後、平成12(2000)年の国勢調査では、28万7648人(本庁管内10万159、湯川支所管内5万7449、銭亀沢支所管内8516、亀田支所管内12万1524)となっている。
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