通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第1節 行政の変貌
2 周辺市町村との合併

函館市の都市計画の継承

銭亀沢村根崎地区の編入

亀田村字港地区の編入

亀田郡銭亀沢村との合併

亀田市との合併

亀田郡銭亀沢村との合併   P330−P333

 根崎温泉地区の函館市への編入以後は、全国的に市町村合併が促進された昭和28年から29年にかけても銭亀沢村との合併はあまり話題にならなかった。ちなみに、昭和29年には全国で176の市が誕生している(昭和30年版『日本都市年鑑』)。経済の高度成長期と命名されることになる昭和30年代に入ると、住民の生活や環境に対する意識も高くなった。函館市との合併時に銭亀沢村の教育長であった吉田正明の回想によると、とくに上水道の敷設要望が強かったことをあげている。昭和28年から29年に銭亀地区と志海苔地区に簡易上水道を敷設したが、あまり衛生的とはいえず、ある村議に「村長、今の簡易水道は、水を汲んでおくとボーフラがわいているが、われわれは金魚ではないんだ。ボーフラを喰って生きるつもりはない。どうするつもりか」と質問され、答弁に手間取って休憩時間となり、その時蛯子村長は「イヤイヤあれは飲み方があるんだよ、水を飲むときはまず瓶の縁をトントンと叩くとボーフラは瓶の底に沈むから、そのとき汲んで飲むとよい、家でもそうしている」とはなしてうやむやとなったそうである(吉田正明「銭亀沢村時代の様々なこと」『地域史研究はこだて』第19号)。
 また、函館市域から銭亀沢村域にかけて用地買収されて、昭和36年4月に函館空港が開設されたことも、合併を考える方向に進んでいく契機となったようで、村議会議員の改選後の昭和38年6月に「自治振興調査特別委員会」が設置され、合併も視野に入れることとなった。行政を担当する側からみると、その要因として第一番にあげられるのは、農業や漁業などの第1次産業の不振による税収の落ち込みで、財政力指数が他町村と比べて非常に弱く、昭和40年度は、上磯町0.63、大野町0.19、七飯町0.33、亀田町0.33、銭亀沢村0.17であった(前掲「銭亀沢村時代の様々なこと」)。
 昭和39年になると、函館市議会、銭亀沢村議会とも合併調査特別委員会を設置して諸問題を検討していくことで合意し、銭亀沢村の委員は、班を編制して北海道内外の既合併都市調査をおこなった。また、昭和39年9月から11月にかけて村内の部落会をはじめ各種団体からの要望の取りまとめがおこなわれ、昭和40年9月には村の「地域振興計画(銭亀沢村振興五カ年計画)」が作られた。この計画の大要を函館市議会が了承し、市村合併協議会の設置について函館市から申し入れがなされた。翌41年1月、村としての説明会が10会場で部落懇談会として開催されたが、時期尚早という意見が多い会場が多く、もっと民意を反映した形での合併を望むというものとなった。
 昭和41年2月、函館市と銭亀沢村は合併協議会を設置し、具体的に合併を進めることとなった。当初の会合で合併予定日を10月1日と決めて作業を進めていたが、住民への説明会での時期尚早論を反映して、6月16日には銭亀沢村と村議会へ住民の意思を尊重し住民投票を求める陳情書が提出された。このため、村は署名者があった志海苔町、銭亀町、湊町、古川町、石崎町の5地区で説明会を開催したが、これらの地区では合併に反対する意向が根強かった。さらに銭亀沢村郷憂会という組織が結成され、約1800人(有権者人の3分の1)の会員を集め、8月2日、会長以下役員連名で渡島支庁長へ合併を慎重に進めるよう反対陳情書を提出した。合併協議会で進めている内容を村民に情報公開し、合併の賛否は村民の意志に委ねるように配慮いただきたいというものであった。
 しかし、8月22日に銭亀沢村の合併特別委員会が開かれ、合併期日を12月1日とすることを賛成10反対5で決定し、25日の市村合併協議会でも了承され、30項目にわたる合併協議会決定事項も議会の決定を待つだけとなった。9月14日、函館市と銭亀沢村の両議会で臨時議会が開かれ、議案「亀田郡銭亀沢村を廃し函館市に編入することについて」が賛成多数で可決された。この時、銭亀沢村議会では蛯子綱太郎、伊藤吉治郎、杉下勝明の3議員が同議案に反対した。「地域振興計画」の内容は銭亀沢村が漁村であることが考えられていないこと、合併について説明が充分でないこと、自治体が大きくなると住民の意志を政治に反映することが難しくなることなどをその理由としている。函館市でも井上一議員が日本共産党を代表して合併の理由、その意義が明確でないとして反対している。

合併の事務引継をおこなっている吉谷市長と蛯子村長
 両議会で合併案が可決されると、早速北海道に合併申請書が提出され、北海道議会総務常任委員会に付託された。10月12日道議会が開催され、総務委員長は「両市村は地形的にも、また社会的にも不離一体の関係にあり、かつ、合併によって自治行政の効率的な運営と住民福祉の向上が期待されますので適当と認め原案可決」と報告、その報告の通り可決された。その後自治省における手続を経て11月22日自治省告示第174号として告示され、11月30日に村役場廃庁式が銭亀沢中学校でおこなわれて、12月1日、銭亀沢村は函館市に編入された。
 昭和42年度から「市地域振興計画」は実施に移され、村役場から函館市銭亀沢支所となった庁舎は、43年1月に新築落成し、上水道も45年度までに敷設された。この「市村建設計画」で、もっとも事業費が計上されたのは、用地買収を含む道路整備費で、ついでコンクリートブロック投入などの沿岸漁場整備の浅海増殖設備費、水道施設費となっていた(『函館市史』銭亀沢編参照)。
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