通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 函館市の都市計画の継承 |
函館市の都市計画の継承 P327−P328 第1章第2節で述べたように函館市の戦後復興を最初に担ったのは初の公選市長となった坂本森一で、彼は市長当選後、市政の方向性を「商港としての港湾建設、函館山を中心とする観光都市化の二要点」とし、「この大きい二線に平行する活発なる企画を展開しようとするもの」と位置づけた(昭和21年12月22日付け「道新」)。坂本市長は戦前の昭和4(1929)年から12年まで2期8年間函館市長の職にあり、その後戦時下を通じて函館市を離れていたという空白があっても、函館の街に精通した市長といえた。また坂本市長は大正10(1921)年から13年まで兵庫県と大阪府の警察部長、愛知県の内務部長の任にあった時、それぞれで都市計画地方委員会委員となっていた(函館市「人事記録」)。この委員会は、第1条で「都市計画ト称スルハ交通、衛生、保安、防空、経済等ニ関シ永久ニ公共ノ安寧ヲ維持シ又ハ福利ヲ増進スル為ノ重要施設ノ計画」とうたい、都市を計画的に整備していく指針を示した都市計画法(大正8年4月5日公布法律第36号。昭和44年6月14日に廃止され、昭和43年6月15日公布法律第100号の新都市計画法に引き継がれる)を受けて設置された委員会であった。函館市も大正15年7月6日に都市計画区域の内閣認可を受けていた。面積は約84.01平方キロメートルで、当時の函館市の中心街末広町から半径約6マイル(9655.8メートル)を計画区域とし、銭亀沢村、湯川村、亀田村、上磯町の一部をも含んでいた。当時の函館市域は19.88平方キロメートルであったので、約4.2倍の都市計画の区域設定であった(「官報」大正15年7月6日、大正15年10月16日付け「函新」)。坂本市長が最初に進めた都市計画構想の骨子は、この都市計画区域を原点に抑え、「現鉄道旅客さん橋を有川波止場(水専前)に移転すること並に亀田村、上磯町合併を前提とするもので、右に伴い市中央部が元七一部隊付近(現千代台公園)となり、同地域に市庁舎を建て、さん橋駅、中央部に環状交通路を建設しようというもの」であった(昭和22年2月16日付け「道新」)。つまり、湯川村はすでに合併(昭和14年4月1日)していたので、亀田村、上磯町との合併が計画構想推進の前提に位置づけられており、市政協議会の了承を得て、函館駅改良計画があった鉄道側との交渉も進め、24日の国鉄との懇談会では、市の計画との調整を図る方向性が示されていた(昭和22年2月25日付け「道新」)。 |
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