通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第1節 行政の変貌
1 高度経済成長期の函館市財政

財政規模は右肩あがり

函館市の企画性

函館市の企画性   P324−P327

 函館市の総合企画は、坂本市長を受け継いだ宗藤大陸が市長に就任直後の機構改革で、調査課の企画係が「市政の総合企画に関すること」を「諸規程の制定に関すること」、「市史編集に関すること」と共に職掌することとなっていた(昭和22年12月24日「函館市処務規則」の一部改正)。この基本姿勢は宗藤市政時代を通じて変化はなく、昭和29年10月9日の改正で秘書室企画係の職掌となり、宗藤市政から吉谷市政への引き継ぎで、秘書室は企画室と変更され、「市政一般の企画及び調査に関すること」となった(昭和30年10月22日「函館市事務分掌条例施行規則」の改正)。一方、坂本市長が市民参加で函館市の企画を総合的に考えようとした函館市企画委員会は、第1章第2節3で述べたように昭和23年2月14日の「函館市専門員会規則」で財政、経済、教育、港湾、観光の5専門委員会となって廃止され、これらを総合的に考える意味での企画は、専門委員会として設置されなかった。
 さらに企画室は昭和34年7月1日に廃止され、秘書室と改められ、秘書係と人事係を所管し、総合企画に関することなどの事務分掌は、秘書係、人事係は引き継がれなかった。以後、吉谷市政時代は、部課の事務分掌に「企画」が組み込まれることはなかった。
 吉谷市長が3期12年を経過したところで、4選支持派と道庁からの人材移入派の対立が続いて、昭和42年の市長選挙には、吉谷一次と渡島支庁長、北海道水産部長を歴任した矢野康、日本社会党が推した北海道新聞社の大内基、日本共産党公認の瀬戸川元信が立候補し、矢野康が当選した。
 矢野市長が第一番に実施した機構改革は、「企画部の新設」であった。翌43年にまとめられた「市長日記」で、その意図と決意を次のようにまとめている(毎日新聞函館支局編『市長日誌』)。

 最近の行政は専門化し、分化している。行政とりわけ地方行政は総合性を持たなければならない。しかし、現実にはタテの系列が強くて、相互の連絡調整がなく、各部局が所管事務にのみ追われてあまり総合的なことをやっていないのが実情である。一種のマンモス化現象ともいえるが、それだけに行政の総合調整が必要だ。つまり専門化し、分化した行政を最終的にどのように総合調整し、住民のための血のかよった市政を展開していくかというのが近代行政の重要課題なのである。
 企画部の新設ついては市議会をはじめ、内部でも″権力機構だ″とか″ムダな機構の積重ねだ″とか批判されたが、企業にしても、やはり場当たり的な事業を推進している時代ではない。
 特にわが函館は、青函トンネルの開通が具体的日程にのぼって、都市として新しい時代のきびしい試練を受けることになる。青函トンネルが開通してもビクともしない都市″函館″の地域計画を策定、新時代の到来に備えねばならないわけで、函館を中心とした″南北海道″の現状を科学的に分析、正確なデータに基づく土地利用計画、道路計画、経済計画、行政計画を策定、それを総合調整して五年後あるいは十年後そしてもっと遠い将来の姿にまでおよんだ都市″函館″のしっかりした青写真をつくりたい。
 企画部はその地域計画を策定し各行政を総合調整する窓口で、だれがなんといおうと函館発展のため″絶対″に必要な機構なのだ。企画部の新設に批判的だった市議会でも特にこの点を強調した。
 企画部は少数精鋭主義をとり、部長の下に総括、建設、社会文教、経済の四人の主幹を置き、職員も部長を含めて一二人とした。

 企画部は、昭和42年8月17日から次の5項を職掌として、新しい動きを始めることとなった。

1 市の重要施策の総合企画及び総合調整に関すること
2 総合開発計画の推進に関すること
3 産業基盤及び社会生活基盤の整備計画の作成及び推進に関すること
4 渡島総合開発期成会に関すること
5 部内の庶務及び経理に関すること
                        (「函館市事務分掌条例施行規則」昭和四十二年八月十七日改正)

 なお、これに先だってあまり機能しなかったといわれる専門委員会は、6月24日に設置規則を廃止する規則により廃止された(「函館市専門委員会規則を廃止する規則」昭和42年6月24日施行)。

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