通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 財政規模は右肩あがり |
財政規模は右肩あがり P320−P324 数十年来地方財政の問題が取りあげられると、ほとんどの場合「財政難」「緊縮財政」「やりくり財政」などの文字でその事情が語られてきた。これは函館市も例外ではない。ことに地を這うような財政状況が続いた昭和20年代の函館市の財政事情を「北海道新聞」の見出しから拾ってみると、「市財政は火の車」(昭和23年8月11日付け)、「窮地に立つ地方財政 早くも予算編成替え」(昭和24年5月22日付け)、「ガタガタの市財政 予算の組み替え必至」(昭和25年8月31日付け)、「今月分の給与も危ない 市財政、最悪の状態へ」(昭和26年1月11日付け)、「″破綻前夜″の市財政」(昭和27年2月22日付け)、と相当の危機感が持たれていた。昭和30年代に入ると「財政難」などの文字は消えることはなかったが、財政状況を示す最悪の表現は影を潜めるようになった。函館市では、昭和30(1955)年4月に坂本市長の急逝以後市長の座にあった宗藤大陸市長と水道局長であった吉谷一次との間で、市長選挙がおこなわれ、接戦という予想とはうらはらに保守と革新勢力に推された吉谷一次が圧勝した(吉谷一次6万6181票、宗藤大陸3万1454票)。首長の交代があった函館市にとって、昭和30年はひとつの転換点であった。函館市民は苦悩の昭和20年代との決別を選択したのかもしれない。 その後必ずしも函館の経済界が期待した展開とはならなかったが、戦後函館市の悲願であった昭和27年の北洋漁業の再開、それに続く昭和29年の再開記念北洋博覧会の開催は、経済効果の面で強いインパクトとなった。地方財政の面からみると、十分とはいえないまでも昭和25年のシャウプ勧告を受けての税制改革も地方自主税源の強化に力となった。 シャウプ勧告というのは、アメリカの財政学者シャウプを団長とする税制調査団が昭和24年8月と25年9月に作成した報告書の通称で、国税は個人所得税を中心とする直接税中心主義の確立、法人擬制説に基づく所得税と法人税課税の統合が柱で、地方財政は市民税と固定資産税(地租、家屋税および船舶など一定の償却資産に対する租税を一本化して採用された市町村民税で、シャウプ勧告は、固定資産税が地方税として相応しい理由として、市町村の区域内に土地、家屋および償却資産が所在するという事実と市町村の行政サービスとの間には深い関連性があるとする)を中心とする地方自主税源の強化などを勧告したものである。 税務行政改善も重視され、青色申告が導入されて税収が安定の方向へ向かったのである。図2−1は、昭和25年から導入された市民税と固定資産税が函館市の市税に占める割合を示したグラフで、昭和30年から固定資産税が占める割合が大きくなり安定していることがわかる。 また、同じく昭和30年頃からこの両税が市税に占める割合は70から80パーセントの間にあり、函館市の財政がこの両税に依存していることがわかる。図2−2は、市税、国庫支出金(地方交付税、国庫補助金、国庫負担金、国庫交付金など国庫から支出された金)、道支出金、市債の函館市一般会計歳入決算額に占める割合を示したグラフである。 このような歳入構造のなかで、函館市の一般会計歳出決算額がどう推移したのかをグラフで示しておいた(図2−3)。昭和26年に10億円台に達していた支出額は、昭和32年に20億円台となり、続いて昭和37年には30億円台、昭和39年に40億円台、昭和41年に50億円台となり、翌45年には100億円台となった。その後は財政膨張に勢いがつき、昭和48年200億円台、昭和50年300億円台、昭和52年400億円台、昭和54年500億円台、昭和55年600億円台と100億円単位で増えている。 日本の公共投資は、社会福祉、保険、文化などのウエートは極めて低いといわれており、函館市の文化などへの投資を歳出額で示すのは難しいが、6・3制導入以後とくに地方財政の課題となった教育費について、一般会計歳出総額に占める教育費の推移を図2−4で示しておきたい。昭和30年代から40年代にかけては平均15パーセント内外で推移してきたが、昭和52年からは10パーセントを切った展開となっている。 |
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