通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
1 まちづくりのビジョンと都市経営

昭和30年・40年代のビジョン

「函館圏総合開発基本計画」にみるまちづくり

矢不釆計画の中止と「函館圏総合計画」

交通新時代に向けての「新函館圏総合計画」

まちづくり計画と都市経営の推移

昭和30年・40年代のビジョン   P337−P339

 戦後、はじめて作成された都市計画といえる『市勢振興第一次計画書』(昭和27年3月)は、道南産業振興の目標を工業の振興を第一義とし水産と港湾を両翼とする経済発展の樹立をめざした(第1章第3節参照)。しかし、昭和30年代に至る函館市の都市像は、保守的で「止まっている時計」と表現されている(北海道新聞社『都市診断 北海道篇』)。
 これに対して、高度経済成長期以降の函館の都市形成は人口変動がないにもかかわらず、亀田市との合併を契機に動的な様相を示す。ここでは、まずこの時期と在任期間が重なる矢野康函館市長の施策を中心に、行政・経済・市民の動きとの関連から函館の都市形成の概観を示したい。

昭和30年代後半の函館
 昭和37(1962)年5月に函館市・上磯町・大野町・七飯町・亀田町・銭亀沢村による「函館地方総合開発計画」が作成された。この計画は、「北洋漁業の衰微は、本地方経済界をして大改革を余儀なくせしめた」ことから、「工業生産都市へと体質の改善」を意図しており、国の政策の新産業都市構想を意識したものであった。新産業都市構想は、戦後の日本経済の地域的不均衡発展を是正し、全国各地に開発拠点地域を設定して、産業の均衡発展をはかる政策であった。つまり、「函館地方総合開発計画」は、新産業都市構想の地域指定をめざして作成された構想であり、その達成により函館地方の発展はもとより、道南地方の開発が大いに促進されることを期待するものであった。
 この計画の具体的な事業としては、函館市港町より上磯町七重浜に至る海浜部埋立造成地を基盤にした工業地帯を構想していた。しかしながら、函館市は新産業都市の指定を受けることができなかった。このような現状に対して、昭和39年第4回定例函館市議会で田村茂三郎議員は、函館市が人口面で旭川市に追いぬかれ、本道第3位の都市に転落したことに関連して、函館市政衰退の責任を市長に追及した。これに対し吉谷一次市長は、新産業都市の指定にもれたが、工業都市化の方策をとっており、地場産業を市発展の根幹と考え、育成に力を入れていることを表明した(『昭和三十九年第四回函館市議会定例会会議録』、昭和39年9月30日付け「道新」)。
 函館市は、この時期に工業都市化への具体的な方策について、その調査を日本工業立地センターに依頼している。この調査結果は、昭和41年10月31日付けで『函館地区開発基本調査報告書』として吉谷市長に提出された。報告書は、交通革命の進行に伴う地域構造の変化を自覚して、函館地区経済がいかなる問題に直面しているのかを明らかにし、それに対応して、何をなすべきかについて、大まかな地域開発の方向づけをおこなっている。開発の基本的な方向性を、(1)都市機能の充実(2)港湾整備の方向(3)農林水産業の主産地形成と近代化(4)建設業の開発、港湾を利用した工業の開発、既存工業の生産性向上(5)商業経営の近代化(6)道南一帯の観光ルートの設定など多様な努力が要請されている。具体的な都市機能、都市施設の整備として空港の整備、人材育成のための文教施設の充実、既存・新設あわせた道路網の整備が必要であるとしている。
 行財政のあり方としては、市長直轄の企画調整部門を確立していっそう強力に推進する体制を整える必要性を強調している。近隣町村とは必要に応じて広域的な行政事務の処理方式を積み重ね、条件の成熟をみて必要があれば合併する方向が望ましいとしている。函館市の財政は停滞ないし硬直化の傾向にあり、開発計画を策定するにあたっては国、北海道の施策と調整して、中央、北海道からの財源の手当てが望めるような工夫を求めている。
 また、函館の将来には、東北北部・道南地域を結んだ経済圏の中核都市の姿を求め、東北地方の都市の開発に先んじて、都市機能、都市施設の整備をすすめ積極的に東北経済圏に進出していくことを提言している。
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