通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 矢不釆計画の中止と「函館圏総合計画」 |
矢不来計画の中止と「函館圏総合計画」 P340−P342 矢不来計画が表面化して以 来、上磯町の漁民の間から「海を守る運動」が盛り上がった。反対の理由は、養殖漁業に自信を得たことから海を手放したくないの一言につきた。逆に「町の発展には埋め立てが必要」との意見もあり埋め立て計画は、町を二分することになった。この間、函館市、上磯町の担当部局は、反対派と十分な話し合いもせずに、多額の漁業補償を示して反対をつき崩そうとしたのである。このため漁民のなかには、親と子、兄と弟が反対、賛成両派に分かれて争う光景もみられ漁民にとって八方ふさがりともいえる状況が続いた。これが、いっそう漁民の反感を買うこととなった(昭和48年3月1日付け「道新」)。反対運動の象徴的な出来事となったのは、昭和47年6月3日に上磯町漁業協同組合が総会を開き、矢不来計画の絶対反対を160対2で確認し、反対対策委員会の存続も決めたことである。これに対し、小松太郎上磯町長は同年9月4日の上磯町議会総合開発調査特別委員会で「実施計画を白紙に戻す」ことを表明し、組合側もこれを受けて同月8日に反対対策委員会を解消させている(昭和48年9月11日付け「道新」)。このようななかにあって小松町長が、埋め立て中止に傾斜した背景として、「上磯漁協・海を守る同志の会」の結束とともに同漁協の役員選挙で埋め立て反対派が理事の多数を占め、話し合いのめどが立たなくなったことがあげられる。結果的には、昭和48年2月19日、上磯町議会総合開発調査特別委員会で小松町長は、計画中止の考えを明らかにした(2月20日付け「朝日」)。矢野函館市長も同月28日、定例函館市議会初日の施政執行方針演説のなかで矢不来計画の断念を正式に表明した(2月28日付け「道新」、平野鶴男「矢野市政に加わって」『地域史研究はこだて』第31号)。 矢不来計画の断念の8か月後に、OPEC(石油輸出国機構)によって独占的に石油価格が引きあげられ、その結果、世界的な規模で生じたインフレによる第1次オイルショックが訪れ、経済の高度成長政策の破綻が明確となって、ひとつの時代が終わりを告げる。この時期は「地方自治体が地域振興のためにやみくもに企業誘致に狂奔する時代は過ぎたはずだ。工業先進地域における環境破壊の余りの深刻さが、地域開発ないし地域振興のもつ意味合いを大きく変えてしまったからであり、地域開発が地域住民の福祉に結びつくものでなければならないという新しい要請が生まれた」という過渡期であったとすれば(昭和47年9月6日付け「道新」)、矢不来計画自体が時代の流れとズレが生じており、工業都市化へのビジョンの終焉を意味していた。 時代の大きな流れのなかで、函館圏行政連絡協議会では、昭和45年に策定した「函館圏総合開発基本計画」について総点検を実施し、新たな視点に立った総合計画の策定が必要との結論から同50年からの準備作業を経て同52年3月に「函館圏総合計画」を新たに策定した。この計画のめざす都市像は、「みどり豊かで、快適な生活環境をもった都市圏」「幸せで、明るい、福祉の充実した都市圏」「あすへの希望に満ちた教育水準の高い都市圏」「豊かで、魅力ある経済基盤をもった都市圏」などがイメージされている。この都市像を達成するためには、函館圏のもつ課題として、(1)住みよい魅力あるまちづくりをいかに進めていくか、(2)交通新時代に対応する施策をどう進めていくか、(3)豊かな経済基盤の確立をどのように進めていくかが提起されている。 この計画は昭和52年度から同60年度を計画期間とし、「豊かな自然につつまれた住みよい魅力あるあすの函館圏をめざして」というサブタイトルをつけ、前計画が「経済重視型」だったのに対し、「生活重視型」へとなっている。この変化は、計画策定の参考資料としたアンケート調査の、「まわりの環境を重視し、自然を大切にするとともに心の豊かさを求める」という市民の声を重視した結果であろう(昭和50年11月16日付け「道新」)。 しかしながら、この計画は時代の大きな変革の時でありながら生活環境整備に終始したきらいがあり、「人口及び就業人口が既成市街地から郊外部、並びに上磯町、七飯町方面に激しく移動し、その集積構造は極めて流動的な様相を呈しており、これを食い止める、あるいはこれに対応した市街地の整備が必要である」との当時の指摘にもあるような函館圏の都市形態の検討についてはふれられてはいない(日本都市総合研究所『函館中核都市圏開発整備事業推進調査報告』昭和58年)。 |
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