通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
1 戦後函館の宗教界

GHQの宗教政策と函館

北海道宗教界の概況

函館の戦後と神社

函館の仏教寺院

戦後における函館のキリスト教

新興宗教の隆盛

GHQの宗教政策と函館   P269−P273

 神社・寺院などの「体制宗教」による戦勝祈願に代表される「宗教報国会」的活動も、米軍による原子爆弾の前には、まったく力がなかった。昭和20(1945)年8月8日、「北海道新聞」は、「大本営発表」として、「広島市にB29少数機/新型爆弾を投下/相当の被害威力調査中」と報ずるのがやっとだった。そして、ついに8月15日の天皇の「終戦」詔勅放送がおこなわれたのである。この日の「北海道新聞」の一面記事の見出しには、このような文字が配されていた。「平和再建の聖断下る」、「万世の為に太平を開かん/天皇陛下/けふ正午御異例の御放送」と。こうした見出しに囲まれて、紙面中央を独占したのが、「帝国堪へ難きを堪へ忍び/遂に四国共同宣言を受諾/昨日詔書渙発あらせらる」の大見出し。それに続けて、かの「敗戦の詔書」が「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ……」と開陳されている。この「敗戦の詔書」を、あの敗戦の「玉音放送」を、当時の市民はどのような思いで見聞きしたであろうか。こうして、平和が装いも新たにして、訪れてくることとなった。
 その平和の到来を迎えるに当たり、まずなすべきは、「戦争責任」の明確化であった。昭和20年8月28日、ときの東久邇宮内閣は、マッカーサー元帥の到着を前にして記者会見で、「国体護持・全国民総懺悔」を強調した。この天皇を頂点とする戦争指導者の責任を曖昧模糊とし、戦争責任の所在を全国民に転嫁した総懺悔を受けて、年末の12月2日、第89臨時議会で、次のような「戦争責任ニ関スル決議」がなされた。
 「飜テ今次敗戦ノ因ツテ来ルトコロヲ視ルニ、軍閥官僚ノ専恣ニ基クコト素ヨリ論ナシト雖、彼等ニ阿附策応シ遂ニ国家国民ヲ戦争強行ニ駆リタル政界財界思想界ノ一部人士ノ責任モ免ルヘカラサルトコロナリ」(『官報』1945年12月2日)
 軍閥官僚と「政・財・思想界」の一部人士に戦争責任を負わせた国会決議は、GHQによる9月の戦犯逮捕、10月以降の民主化推進のなかでおこなわれた。
 東久邇内閣は、敗戦直後の荒廃した民衆の心をつかむために宗教の利用を考え、9月に日本再建宗教教化実践要綱を示し、戦時宗教報国会を「日本宗教会」に改めた。それに対し、GHQは政治・信教ならびに民権の自由にかかる一切の制限を撤廃することを命じ、12月には宗教団体法(昭和14年)とそれに附属するすべての法令を廃止させるに至った。
 「神道及神社ニ対スル公ノ財源ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル」、「伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト」
 この「神道指令」による国家神道と神社神道の廃止をうけ、戦前の「宗教団体法」に代わり「宗教法人令」が施行されることとなったのは12月28日のことである。ここに神社を除く、神道教派、仏教宗派、キリスト教およびその他の宗教の教団が「法人」として公認された。これにより、宗教団体は従前のような文部大臣や地方長官の認可なく、裁判所の許認可だけで自由に団体の設立が可能となった。
 こうした一連の戦後処理と民主化の推進のなか、函館の宗教界はどう敗戦後をすごしていたのであろうか。
 8月15日の敗戦から2か月ほど後の10月9日、日本基督教団教区長の真野万穣ほか2名が市役所を訪れ、12日開催予定の教員を対象にした「アメリカ事情周知懇談会」について、学校長と協議をした。新川国民学校で開かれたこの懇談会は、当時のアメリカや占領軍に対する不安・誤解を解消するためのものであろう(昭和20年10月7日・10日付け「道新」、「若松国民学校日誌」)。この基督教団の懇談会の翌日には、大日本宗教報国会函館支部が国民学校教員を対象に「宗教講話会」を同じく新川国民学校で催している。講師は日大教授常本憲雄と大谷大学教授岩見護であった(同前)。2日間にわたる懇話会と講演会が、教員を介して市民の戦後不安を和らげる目的で催されたであろうことは、推測に難くない。
 そして10月16日には、大日本宗教報国会函館支部仏教部会が食糧事情解決の一助として、近隣の生産地域たる農村に供出要請のため巡回を始めている(昭和20年10月16日付け「道新」)。
 敗戦直後は、将来の不安とともに、この食糧難という死活問題にも苦悩を余儀なくされた時期であった。この頃の様子の一端は庶民の肉声ともいうべき、ある道南の青年団の声が生々しく伝えている(乙部町三ツ谷青年団『記録簿』〈昭和10年度以降〉)。
 まず、戦争責任と信仰についてこう語っている。
 「神仏ノ尊敬モ、極端ナル国家主義者ノ神官達ノ誤レル侵略主義ノ施策ノ結果トハ難モ、一部ノ識者ヲ除イテ、全ク信仰心等ハ省ル気運モ無シ」
 既述の国政レベルでの「戦争責任」は、「軍閥官僚と政財思想界の一部人士」と統括されていたが、庶民にとっては、もっとも身近な「極端ナル国家主義者ノ神官達」にも戦争責任を見出していることは注目される。
 敗戦を機に、戦地から引揚げてくる兵士たちの群れも跡を絶たなかった。
 「一般ノ眼前ニ、或ハ遠ク南方ノ島ヨリ夏衣一着ノ復員軍人帰還ヲ迎ヒテ、心ヨリ同情スル者モ無ク、無言ノ遺骨次々ニ還郷セシモ、今ハ仕方ナク迎ヒル、形バカリノ村葬ヲ執行、供物献花ノ品スラモ意ノ如クナラズ」
 復員軍人や戦死者を迎えることも、物資不足ゆえに十分にできない歯がゆさをが伝わってくる光景である。
 この物資の欠乏は、食糧難の形で当時の人びとを窮地に追いやった。
 「一般ノ村民モ自ガ食スヲモ缺クニ、其日ノ露命ヲ絡ナグニ懸命ノ有様、軍閥倒サレ又財閥モ今ヤ無気力、官僚ノ机上設計モ空計画ノ連出」
 このように、当時の社会状況を通観したうえで続けていわく、
 「配給米ノ未配モ正月以来殆ンド見直シ無ク、各地ニ食料対策ノ委員、方々ニ奔走シ遍在セル食料ノ獲得ニ自村ノ産物ヲ以テ交換条件トナシテ、全道ニ暗雲拡ガル」
 食糧難は日増しにつのり、食を求めて東奔西走する日が続いた。とりわけ、配給米不足を求めての苦闘は凄惨を極め、想像を絶する次のような事態も発生した。
 「当時価一升ノ配給米六拾銭弱ナルモ、闇相場ト称スルモノ一俵三千円ニ一本ノ酒、手土産持参、ソバ一俵・キミ一俵各々八百円前後、一部悪質農家ハ供出米モ不出、闇カラ闇ノ売買ニテ、衣類タンス家財マデ、一時ニ成金ト化シ、反面、漁村民ハ、都会消費者ハ丸裸トナリ、農村対一般民ノ対立ハ流血ノ惨事ヲモ、今ハ所々ニ起リヌ」
 米の生産者たる農民と米の消費者たる漁民・都市民とが、米をめぐる対立状況すら起こったのである。
 こうしたなか、市民生活のうえで、目に見える形で時代の転換を告げる出来事があった。それはほかでもなく、「神道指令」を受け、神社による公金使用の祭礼が禁止されたことである。天皇を元首とする国家体制のもとでは、国家神道の中核を担う神社の祭礼には、一定程度の公金が「神社費」として拠出されていた。昭和初期には200円から400円程度であったが、それは中国への侵略が激化する昭和12年以後には2000円から3000円へと跳ねあがった(『函館市史』統計史料編)。この神社費の多寡よりも、神社費そのものが公金として、「体制宗教」の核たる神社に支給されていたのが、敗戦と「神道指令」のなかで消え失せたのである。
 戦後処理と民主化が進むなか、昭和20年は暮れ、新年を迎えたその正月1日、「天皇の人間宣言」が「詔書」として発表された。
 「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」と詔書にあるように(『官報』1946年1月1日)、それは日本歴史上、まったく空前の「天皇の神格」否定を内容とするものであった。「天皇の人間宣言」により天皇の神性否定がおこなわれた昭和21年は、同時に「象徴天皇制」を標榜した日本国憲法が公布された記念すべき年でもあった。昭和22年5月3日に施行されたこの憲法第20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と謳われたのであった。
 「象徴天皇制」という形で、「天皇制」なるものが国制上、存続が決定した昭和21年は、実は神社が信教の自由という前提のもとで、再生を開始した年でもあった。2月2日、前年の「宗教法人令」のなかでは除外されていた神社・官幣社・靖国神社が「宗教法人」として公認追加されたことが、その象徴的なことであった。
 こうして、戦後日本は敗戦のショックを背負いこんだまま、占領政策下において、自立国家の再建をめざして民主化と経済復興の道を歩み出す。この新たな模索をはじめた戦後日本にあって、函館の宗教世界はどうそれに対応していったのであろうか。北海道の宗教界全体の動向のなかで、函館の事例を探ってみることにしよう。
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