通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 新興宗教の隆盛 |
新興宗教の隆盛 P291−P292 日本の敗戦が国民全体を測り知れない失意と不安のどん底に追いやったことは、推測に難くない。さまざまな新興宗教が発生したかげには、この不安定な心理状況があった。昭和22年1月の頃、「横浜、東京に開闢以来の天災地変がある。これは皇大神宮様が人心改革、天地改革のために行うものだ」と神のお告げをふりまく「璽光尊」を本尊とする「璽宇教」が現われた。この広告塔に、かの不世出の名力士の元横綱双葉山が利用されていた騒動だけに、大きな波紋を呼んだ(昭和22年1月23・24日付け「道新」)。 「北海道新聞」は昭和24年6月14日付けで、「神社・仏閣に無常の風」、「新興宗教が濫立」の見出しで、雨後の筍のように発生してきた新興宗教に注目している。全道的には、たとえば、岩見沢市の「踊る宗教」、釧路市の治療本位の某教会、長万部の治病中心の「光のキリスト教」をはじめ、5つの教えがあったという。 熱海では旧観音教の「メシア教」(世界救世教)が脱税の容疑で教祖が逮捕された。昭和25年5月29日のことである。この教団犯罪もさることながら、新興宗教がまん延していく背景には庶民の側の価値観によるところもあった。その1例として、戦後の結核患者のケースがあげられよう。北海道の結核患者数は昭和25年当時、約9万500人で、そのうち入院しているのはわずか5200人と推定された。経済的な問題と病気に対する認識不足から、大半が自宅療養患者で、そのうちの1割は灸や祈祷に頼っていたという(昭和25年11月27日付け「道新」)。こうした現実が新興宗教の温床になっていたのである。 昭和26年に入ると、北海道で法人として届出した新興宗教は13教団、信者数約4万名を数えた。そのひとつに、函館市内を拠点とする「一心教」があった。天照大神の全能とキリスト教の博愛をとりいれた教義で、女性の管長は約3000名の信者を得ていた。そのうち男が2000名であった(昭和26年1月7日付け「道新」)。 戦後の虚脱感に心の支柱を失い、生活苦の心の空間に入りこんできたこうした「アプレ宗教」は、函館でも一大社会問題となって現われた。新聞によれば、市内に「病人や精神的苦悩者などの弱点ににつけこんで一もうけをたくらんでいる祈祷師」は100人も横行しているという。その祈祷療法も「出鱈目」で、軽石を入れたコップの水のアワを飲めば治るとか、患部をさするだけで直す関節炎祈祷療法などがあって、なかには、サクラを使った祈祷師もいたという(昭和26年1月26日付け「道新」)。この年の10月には、青森県の祈祷師が銭亀沢村で祈祷と治療で荒稼ぎのうえ、妙薬だと偽わり、野草のタネを売りつけた容疑で警察の取調べをうけている。 昭和28年には銭亀沢村字根崎の漁家で、「インチキ宗教」にこった一家5人があいついで発狂し、さながら地獄絵図となった。「一家に魔物がついているから祈祷師にはらってもらえ」の教えどおりに従ったことが、この悲劇を生んだという(昭和28年5月7日付け「道新」)。 以上のように、函館の戦後10年は、キリスト教が広く多くの入信者を得ながらも、彼らを受け止めることができず、既成宗教のなかで年中行事としての祭礼に復活の兆しをみせ、戦争責任を辛うじて回避した神社とは裏腹に、仏教寺院は「家」制度の批判を受ける立場に置かれていた。この既成宗教の苦境をよそに、自在に勢力を伸ばしたのが新興宗教界であった。このような新しい宗教にのめり込んでいった当時の人びとの宗教意識もまた、戦後10年を写し出す処世の縮図であったのかもしれない。 |
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