通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 函館の戦後と神社 |
函館の戦後と神社 P275−P283 「北海道新聞」は、ポツダム宣言の1か月後の昭和20年9月15日、恒例の亀田八幡宮の祭典と函館八幡宮の大漁祈願祭の予告と案内を報じている。その2日後、函館八幡宮で勅使参向のうえ、「戦争終息奉告」が開催されるとも伝えている。私たちは、そこに神社の2つの顔を見ることができる。1つは、戦後処理をおこなう神社であり、今ひとつは、祭典と大漁祈願にみるような、旧来の伝統的にして庶民的な神社である。この本来的な神社の祭礼や祈願に、人びとの敗戦のショックをかき消すかのような健康的な息吹が感じられる。 前述したように、12月15日の「神道指令」を境に、神社に対して、一定の宗教規制が開始される。12月18日の学校における神社参拝の禁止がそのひとつである。また、昭和21年元旦の初詣もこれまでのように報道されず、かろうじて伊勢神宮について、「例年賑ふ年越詣の人達も今年はまばら、元旦の朝詣も全国から集まる参拝者の混雑する風景は見られなかった」と伝える程度であった(昭和21年1月3日付け「道新」)。 昭和21年2月2日に「宗教法人令」として神社が公認され、桜花ほころぶ5月11日から12日には、函館護国神社の祭礼が、軍国色を一掃し、民衆の祭りとして、占領軍も参列して執行された(5月12日付け「道新」)。旧県社の東照宮も6月16日稲荷神社と金刀比羅宮を配祀し、名称を函館東照宮と改称して新発足した。 そんななか、7月1日、4年ぶりに再開された港祭りが1週間繰り広げられ、街は祭り一色に染まった。その様子を翌日の「北海道新聞」はこう伝えている。「少女達が振袖姿で楽しさうに踊る姿は久しぶりに見た平和な昔を偲ぶ景観だ。また慰霊堂前広場では祝の相撲大会、港運会社の記念野球大会等も行はれ、更に工場、事業所等で夕刻から職場単位の踊りを催し、開港を祝った」と。 敗戦1年目の8月15日、函館八幡宮の祭礼が4日間にわたり、8年ぶりの古式ゆかしい神輿渡御も復活して盛大におこなわれた。 9月13日から3日間執行された亀田八幡宮の祭典も同じく盛況を極めた(昭和21年8月15日・9月12日付け「道新」)。 こうした庶民の娯楽でもある伝統的な神社の祭礼や港祭りのなかに、戦後を歩み出した市民にとって、11月3日の「新憲法」の公布も、民主政治、人権尊重、恒久平和の喜びをもたらしていくものであった。 昭和22年正月は、函館八幡宮に約2万人が参詣したが、その数は公劇や大日、松竹、大門座などの映画館9館の入りが3万人であったのに比べて少なく、「北海道新聞」が、「映画の魅力は神様をはるかに追越した」と評した(1月3日付け「道新」)。 ともあれ、昭和22年以後の函館神社界は、正月の初詣にはじまり、5月11日の潮見丘神社(護国神社)の祭典、8月14日の函館八幡宮、9月14日の亀田八幡宮の祭典の執行を中心にして、年中行事的に展開していく。この代表的な神社以外の地域の神社においても、その本来的な地域安全と生業祈願を執行する点で、まったく同じである。 神社にとって祭典とともに収入源でもあり、年中行事的な祈祷行事として看過できないのが、「七五三」の祝祭祈祷である。戦後の「七五三」詣りは勲章や金モールの姿はまったく消えて、振袖や洋服姿など民主的な平和なかわいい風景となった(昭和21年11月16日付け「道新」)。「七五三」の宮参りは、11月15日が古くからの習わしだったが、寒さも加わる頃なので市内の神社は、昭和22年から11月3日に繰りあげたが、26年からは北海道一斉にさたに繰りあげて10月15日に執行することになった(昭和22年11月4日、26年10月18日付け「道新」)。以後、現代に至るまで、函館市をはじめ北海道では、本来の「11月15日」を1か月繰りあげて、実施されている。 ちなみに、昭和26年10月15日の「七五三」の祝事を「北海道新聞」は写真入りでこう伝えている。「産土神の函館八幡宮でも昔は強くなれと弓矢を渡したのが今年は特に平和のシンボル鳩の模様をあしらつたタンザクをこれに代えて良い子に贈るという新しい七・五・三風景だつた」と(10月18日付け「道新」)。以後、神社のこうした年中行事的な祝祭祈祷そのものは、ほぼ一定して執行されていくが、そのなかにあって、多少の変動がみられるものもある。正月の初詣者の人数はそのひとつである。「北海道新聞」によれば、前述したように、市内の神社における昭和22年の初詣者数は、函館八幡宮の場合、約2万人であったが、その数はその後どう推移したのであろうか。 各年1月3日付けの「北海道新聞」の記事でその状況をみると、昭和23年は函館八幡宮と潮見丘神社を合わせて約4万人、25年は各神社参詣人を含めた市内の人出が、ざっと10万人を数え、26年には函館八幡宮、潮見丘神社では例年と変わらない往来で、亀田八幡宮は例年より2、3割増加し、徐々に増え続けてきた。27年には、悪天候にも拘わらず函館八幡宮が前年の3割増の5万人、潮見丘神社3万人、亀田八幡宮2万人と大幅な増加をみた。対日講和条約発効の翌年、28年は、好天に恵まれ、函館八幡宮、亀田八幡宮などの初詣者は前年の2倍ないし3倍にふくれあがった。 戦後の神社が宗教法人とされ「天皇制」から切り離されたとはいえ、従前の来歴からいえば、けっして無縁であるはずはない。その意味で、「象徴天皇制」のもととはいえ、戦後においても神社の存立は一面、「天皇制」と表裏することは事実であり、初詣者の増加傾向は、「天皇制」の容認度を測るひとつのバロメーターではあろう。
この名称変更もまた、初詣者の増加傾向とともに、「天皇制」と神社の関わりを考えるうえで見逃しにできない事象である。 昭和21年4月29日の「天長節」の日、「北海道新聞」の「論塔」欄に、中学生の声として、地域内で「元日に国旗を掲揚した家は函中と国民学校一つを除いて僅かに八軒足らず。紀元節に至っては、矢張り学校二つを除いて僅か四軒に過ぎませんでした」と嘆く声が寄せられた。同年7月5日の「論塔」にも会社員の声として、港祭りの夜、「残念ながら、一人として護国神社に礼をする人を見ることが出来ませんでした」と、英霊供養の実態を嘆く投書が寄せられた。この国旗掲揚といい、英霊供養といい、ともに神社観と「天皇制」さらには戦争責任が深く絡むものであり、そこに庶民の一定の批判意識が反映していることはいうまでもない。 そんななか、昭和23年2月26日、GHQは日本政府に次の12祝祭日の国旗掲揚を許可した(3月6日付け「道新」)。 1月1日(四方拝)、同3日(元始祭)、同5日(新年宴会)、2月11日(紀元節)、3月21日(春季皇霊祭)、4月3日(神武天皇祭)、4月29日(天長節)、9月21日(秋季皇霊祭)、10月17日(神嘗祭)、11月3日(明治節)、同23日(新嘗祭)、12月25日(大正天皇祭)。 占領政策を方針転換していくGHQの思索がこの国旗掲揚の許可に読み取れる。この許可を受けて当時の北海道民は、国旗・国歌をどう考えていたかを、次のアンケート「国旗国歌をどうする」にうかがってみよう(図1−7)。
この国旗国歌と表裏する天皇制のシンボルともいうべき元号制について、北海道民は昭和25年当時、どう捉えていたかを、別掲の「元号廃止は是か非か」のアンケートに伺ってみることにしよう(図1−8)。
朝鮮戦争後の金ヘン景気の波に乗って、銅・真ちゅうなどの金属泥棒が、市内の函館八幡宮、潮見丘神社、亀田八幡宮、大森稲荷神社などに出没し、銅板屋根がごっそりはぎ取られたり、燈ろうが丸はだかになる被害があいついだことがあった。昭和26年の頃である(昭和26年3月4日付け「道新」)。この盗難事件は市内の仏教寺院でも2、3件発覚したが、その被害の量と額は神社に比べて僅少であった(第7編コラム13参照)。 戦後日本は昭和26年9月8日調印、翌27年4月28日発効の米国中心の「対日講和条約」を機に大転換を遂げる。そのなかで日本の個別的・集団的自衛権が承認され、専守防衛に道が開かれることとなったのである。調印当日、日米安全保障条約も調印され、米軍の駐留継続を認めた。 昭和27年の8月14日から16日の函館八幡宮の祭礼では、講和条約後の「復古調」の波に乗って、奉祝行事が盛大に執行された。演芸、舞踊、相撲大会も「ヤンヤの人気で終電車を忘れてとり残される人もあった」。14日の宵祭には「家族連れが目立ち、ようやく平和な姿にたち返ったふるさとの姿をそのまま描きだす」風景であったという(8月15日付け「道新」)。恒例の9月14日の亀田八幡宮の祭礼も、同じように盛大を極めたことはいうまでもない。 この復古調の波は、湯倉神社にも現れ、昭和28年11月28日付けの「函館新聞」によると、同社では神道の教えと特性を判りやすく諭した「湯倉神社神道柱暦」を調製し、関係者や元旦参拝者に頒布することになった。 28年の正月風景は、独立平和1年の第1日でもあり、函館八幡宮、亀田八幡宮などの氏神の社頭は、新聞が「神社、映画館エビス顔」と大見出しで報ずるほど、雑踏を極めた(1月3日付け「道新」)。神社の世界にも、人びとの生活にも、いよいよ戦後復興が確かなものとして、実感されるようになったのである。参考までに、講和条約に対する考え方と、戦後10年を迎えた日本を当時の人びとがどう考えていたかを紹介しておこう(図1−9、1−10)。 このアンケートから講和条約を「半独立」も含め、7割強が「独立」と認め、その一方で中ソとの関係改善の必要も認めていることが知れる。また「戦後十年の日本」のアンケートでは、戦後10年で世の中が明るくなったと約4割が認め、とりわけ衣食の改良は過半の人びとが認めながら、自衛隊・戦争放棄には、「家族制度」とともに少なからず不満を抱いていることがわかる。
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