通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 函館の仏教寺院 |
函館の仏教寺院 P283−P287 「北海道新聞」は昭和21年7月18日付けの「文化」欄に、「本道宗教界の動き」と題する一文を掲げ、そのうち仏教寺院について「古い伽藍と難解な教義に自縄自縛の形の仏教界も道民の過半を占める信者の数をたよりにやうやく活発」になったと、仏教界の統一戦線の″大菩提舎″や東西本願寺主催の講演会をあげて紹介している。あわせて、「もはや大衆は、はつきりこの社会の動乱を宗教のみが救つてくれるとは信じてゐない。」と分析する一方、「宗教家が今日の社会にいかに活動するかがその宗教の生命の存続を決する」と警鐘も鳴らしている。現にこの昭和21年6月29日、30日、函館東本願寺別院において「新時代の宗教的自覚」と題する「宗教文化講演会」が開催された。戦前の「体制宗教」の一翼を担なってきた函館の仏教寺院も、混乱のなか、ようやく戦後の自立化を開始したのである。同じく7月10日、前年の空襲により犠牲となった連絡船の殉職者326柱の追悼法要も東本願寺で厳かに執行された(昭和21年7月11日付け「道新」)。 仏教寺院と檀家を結ぶ強力な機縁は、戦後「家族制度の旧いカラは失くなっても御先祖様のお墓やお寺に″ごあいさつ″」する7月13日盂蘭盆会であった(昭和23年7月14日付け「道新」)。この年中行事としてのお盆と春と秋の彼岸会を通して、寺院と檀家は先祖供養を営みながら、寺院は戦後の「家」制度に対する批判を甘受しなければならなかった。 そのため、市民に開かれた寺院を目指し、各寺院は積極的に法活動を実施した。たとえば、昭和23年9月9日に執行された称名寺における開山称誉上人の三百年忌は、清き乙女らが讃仏聖歌をうたう函館で初の音楽法要であった(9月10日付け「道新」)。また、同年12月23日に絞首台に上った東条英機ら7名の戦犯に対しても、市内の各寺院・教会も「平和の祈り」を捧げた。「北海道新聞」はこれに関して高龍寺での厳かな「平和祈念法要」の様子を写真入りで紹介すると同時に、東条の「さらばなりうゐのおく山きようこえてみだのみもとに行くぞうれしき」の辞世の歌を報じている。 各寺院はこのように、寺院個別の法活動をするかたわら、昭和23年9月28日、仏教協会の協力のもと、称名寺から函館山に33観音を遷座した。以後、この仏教協会主催の観音参りが宗派を越えた年中行事として市民の中に受容、定着していった。 こうした自寺と協会の懸命な自助努力にも拘わらず、この期の寺院にとって、世間の「家」意識は逆風であった。檀家制を拠り所に、「葬式仏教」をその経済的基盤にしてきた寺院にとって、この「家」制度は何よりも逆風であった。別掲の「家」制度をめぐる世論調査をみるように、「家」制度そのものについて、未婚既婚を問わず、その廃止に過半が賛成している。とりわけ、未婚者の賛成率が群を抜いていることは、将来の「家」制と檀家制を考える上で注目される(図1−11)。
(寺は)一尾ずつ収穫するイカを、そしてお金を、一度ならず二度三度集められる村人の気持ちになつて、ただ檀家回りにのみ日を過ごさず……純ぼくな村の一人一人の信仰を邪道から救い、正しい信仰へと指導あらんことを望んで止みません、と。この投稿者は恵山の1主婦である。しかし、この訴えは市内の寺院にも相通ずるものであったろう。 この24年の12月4日付けの「北海道新聞」は、「共同募金」について全国世論調査を報道している。そのなかで、「(募金に)応じたのはどんな種類の寄附ですか」の質問で、「社寺・祭礼」が全国の場合60パーセントであるのに対して、北海道は96.4パーセントで、もっとも高い。ちなみに、「学校・PTA会」に対しては、北海道は74.8パーセント、全国が68.4パーセントである。 ついで、「その中、どれに一番多額の寄附をしましたか」の質問でも、「社寺・祭礼」が北海道の場合第1位で47.2パーセント、全国が29.4パーセントである。第2位が「学校・PTA会」であり、北海道の場合、35.6パーセント、全国は50.6パーセントであった。北海道の場合の寄附金が他府県と逆に、「社寺・祭礼」がトップを占めていることと、前の「論塔」の投稿にみるような募金・寄附事情とが無縁な訳でないことは容易に察せられよう。 戦後の仏教寺院にとって死活を決する「檀家制度」はこのように、厳しい状況下にあった。その苦境を背負っての戦後の再出発であったといってもいい。 こんなこともあった。市内の日蓮宗布教所がおこなったお盆供養の太鼓が隣近所の迷惑となり、軽犯罪法違反で検挙されたのである。「北海道新聞」はそのことを「法華の仏力及ばず」の見出しで報じている。昭和25年8月8日のことである。 講和条約を機に、独立の第1歩を踏み出した昭和27年2月12日、硫黄島などで戦没した人たちのために、浄土真宗青年会は、異国に眠る霊を偲んで仏説阿弥陀経や「正信偈」などの「経文」を写経して現地に送った(昭和27年2月12日付け「道新」)。この昭和27年から28年は、新生日本に向けてかなり活発な宗教伝道が実施された時期であった。 |
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