通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 函館公海漁業の初出漁 |
函館公海漁業の初出漁 P186−P188 函館公海漁業が母船許可の内示を受けた29年1月7日、函館市は緊急市政懇談会で、1000万円の出資を決めている(『函館公海漁業二〇年史』、以下の記述も同書による)。
第3共同丸の北洋初の出漁は、他船団の母船に劣る船舶、初めての経験といった不利な条件を抱えながらも、順調に操業を続け、8月26日全船無事函館港に帰還した。漁獲量は、ベニサケ26万5000尾、シロサケ83万9000尾、マス52万7000尾、ギンサケ15万2000尾、マスノスケ9000尾、合計179万2000尾で、製品として塩蔵品1385トン、冷凍品1269トン、筋子21トンを生産し、4億8412万円の売上高になった。独航船に支払う買魚代2億3302万円と諸経費を差し引いて3833万円の利益金を計上している。他船団に比べて2350トンという小規模な母船と少ない独航船による出漁にかかわらず、漁獲尾数で124パーセント、漁獲量で138パーセント生産目標を上回る成果をあげたのである。 しかし初出漁では一定の成果をあげたものの、初年度から2年度の母船朝光丸の購入に至る時期の資金調達はきわめて困難で、「第三共同丸の出漁の目鼻がついて、いざ出港というときになっても銀行は金を貸してくれない。金がなければ第三共同丸の代金が支払えない」といった切迫した状況におかれていた。西出社長は、このような状態におかれて、辞意を表明し、後任の社長には、当時函館市議会議長の片桐由男(同社取締役)が選任された。片桐は、当時市議会議長のほかに、函館米穀株式会社、函館製麦株式会社の社長の要職にあり、銀行は片桐に対する信用を基に融資に応じたという。これは出港のわずか5日前のことであった。事業資金として函館市内の9銀行に依頼した協調融資は、融資額が当初の予想額を下回り、実際、承認されたのが出漁後の5月下旬であったという。 |
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