通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第3節 敗戦後の函館の産業経済
2 北洋漁業の再開と函館

北洋漁業再開に至るまでの経緯

独航船の配分をめぐって

初年度の出漁と操業成績

函館公海漁業株式会社の設立

本格操業の開始

函館公海漁業の初出漁

基地函館の変貌

函館公海漁業の初出漁   P186−P188

 函館公海漁業が母船許可の内示を受けた29年1月7日、函館市は緊急市政懇談会で、1000万円の出資を決めている(『函館公海漁業二〇年史』、以下の記述も同書による)。
表1−35
第3共同丸付属独航船・調査船(函館公海漁業分)
船名
船籍
トン数
船主名
第1北東丸 北海道(函館)
74.21
函館北東漁業
第25大国丸 同上
50.10
三崎誠一
第26大国丸 同上
79.49
同上
第18富丸 北海道(網走)
84.88
村上儀蔵
徳洋丸 青森
76.22
米田徳治
第3大勝丸 岩手
55.13
平野秀夫
第18長栄丸 同上
63.44
藤原松右衛門
富隆丸 新潟
74.91
丸井水産
第3あさひ丸 (調査船)
105.41
大洋漁業
第3美登丸 (同上)
58.93
共和合資
順洋丸 (同上)
49.91
太田順二
『函館公海漁業二〇年史』より作成
  函館公海漁業は極洋捕鯨と共同経営になったため、第3共同丸共同事業本部(独立会計)を設置し、母船は、函館公海漁業の第3共同丸を傭船する形をとった。付属独航船、調査船は、両社が許可申請時にそれぞれ契約を結んだ船が参加し、函館公海漁業所属の独航船は8隻(極洋捕鯨6隻)、調査船は3隻(同2隻)であった(表1−35)。函館公海漁業と極洋捕鯨による共同経営の内容をみると、流動資金の調達、漁獲物、製品の販売量、損益の配分比率は、函館公海漁業が62.5パーセント、極洋捕鯨が37.5パーセント。事業に対する権利義務の関係は折半とされ、協定書には、さらに、次年度の許可申請について「両社各々単独出漁許可の保証取得につき双方誠意を以て監督官庁に請願するもの」という条項が記載されていた。これには、この年の共同経営が、あくまでも暫定的なもので、究極的には単独経営の実現をめざすという、両社の意図が示されていた。
 第3共同丸の北洋初の出漁は、他船団の母船に劣る船舶、初めての経験といった不利な条件を抱えながらも、順調に操業を続け、8月26日全船無事函館港に帰還した。漁獲量は、ベニサケ26万5000尾、シロサケ83万9000尾、マス52万7000尾、ギンサケ15万2000尾、マスノスケ9000尾、合計179万2000尾で、製品として塩蔵品1385トン、冷凍品1269トン、筋子21トンを生産し、4億8412万円の売上高になった。独航船に支払う買魚代2億3302万円と諸経費を差し引いて3833万円の利益金を計上している。他船団に比べて2350トンという小規模な母船と少ない独航船による出漁にかかわらず、漁獲尾数で124パーセント、漁獲量で138パーセント生産目標を上回る成果をあげたのである。
 しかし初出漁では一定の成果をあげたものの、初年度から2年度の母船朝光丸の購入に至る時期の資金調達はきわめて困難で、「第三共同丸の出漁の目鼻がついて、いざ出港というときになっても銀行は金を貸してくれない。金がなければ第三共同丸の代金が支払えない」といった切迫した状況におかれていた。西出社長は、このような状態におかれて、辞意を表明し、後任の社長には、当時函館市議会議長の片桐由男(同社取締役)が選任された。片桐は、当時市議会議長のほかに、函館米穀株式会社、函館製麦株式会社の社長の要職にあり、銀行は片桐に対する信用を基に融資に応じたという。これは出港のわずか5日前のことであった。事業資金として函館市内の9銀行に依頼した協調融資は、融資額が当初の予想額を下回り、実際、承認されたのが出漁後の5月下旬であったという。
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