通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 本格操業の開始 |
本格操業の開始 P184−P186 昭和27・28年の試験操業の結果、漁獲成績が良好で企業採算の見通しがたったため、水産庁は、28年11月16日、翌年の許可方針を発表して、29年から本格操業に移行することを明らかにした。許可方針はまず独航船について発表されたが、これは、母船許可の取得を巡る各社の事前工作が活発で、母船数を絞ることができなかったことによるもので、とりあえず独航船関係分のみが発表されたのである。独航船は160隻に倍増し、調査船も45隻に増加した。独航船の増加に合わせて、操業区域は、カムチャツカ寄りの西側に拡大された。この許可方針が発表されるや、独航船の申請件数は、にわかに急増して、本州では148隻、北海道が138隻、合計286隻に達した。このような状況に対して、水産庁は、以東中型底引漁船(東北・北海道近海の中型底引船)を対象に、底引漁船の廃業(許可放棄)を条件に独航船の許可を与えることにした。このため、以東底引船が多い本州側が93隻、北海道側が67隻に決まり、これまでの北海道と本州の配分関係は逆転した(前掲『さけ・ます独航船のあゆみ』、以下の記述も断りのない限り同書による)。水産庁が、中型底引船の廃業を独航船許可の条件とした意図は、北海道と東北各県で資源の枯渇で、過剰になった底引漁船を、北洋に転換させることによって削減しようとすることであった。ただ、独航船の許可と引き換えに底引網漁業を廃業することは、底引漁業に依存してきた北海道の中小漁業者には、サケ・マス漁業以外の期間の裏作を失うことになり、多大の影響を及ぼすことになることから、水産庁に対して、道水産部をバックに、許可条件の変更を陳情した。しかし当時の漁業政策では、中型底引漁船の減船対策が重視され、この陳情は受け入れられなかった(前掲『続北海道漁業史』)。 独航船の許可枠の増加に伴い、船団の増加は当然予想されたことだが、前年度、申請が認められなかった各社の母船申請の動きは、一段と活発化した。年明けの29年1月4日、水産庁は船団許可の方針を発表したが、方針の発表と同時に、大洋、日魯、日水の実績3社に加えて、新たに北海道漁業公社(前述した北海道北洋出漁組合の流れを汲む)、函館公海漁業、大洋冷凍母船、極洋捕鯨の4社の4母船と、日魯漁業の追加1母船の許可申請が提出された。 この年の許可方針では、昨年までと同様、母船と独航船の共同出願とし、実績3社には、大洋漁業が母船永仁丸と独航船36隻、日魯漁業が母船明晴丸と独航船30隻、そして日本水産が宮島丸と独航船34隻とすること、新規の船団申請については、母船が最低適格要件(総トン数1000トン以上で、製造加工設備として、缶詰[1ライン以上]または冷凍[1日10トン以上]設備、無線電信機、方向探知機、ロラン、レーダー装置を備えていることなど)を充たしており、水産庁の検査に合格した独航船と所属契約を結び共同出願すること、この場合1母船に所属する独航船隻数の最高限度を20隻とし、所属船が少ない場合は許可しないこともあり得ることが付け加えられていた。 つまり、独航船の許可隻数は160隻とするが、このうち100隻が実績3社の割当となるので、新規母船の申請者は、残り60隻のなかから独航船を選び契約することになる。このため母船各社の独航船の獲得競争は熾烈を極め、「地磐、看板、カバン(金)の三者が入乱れてのテンヤワンヤのストーブリーグの展開」といった状態が繰り広げられたという(1954年5月1日付け『水産週報』)。 実績3社は、割当分の独航船を確保したが、新規母船の申請は、北海道漁業公社が20隻、日魯の新母船が20隻と枠を確保、残り20隻を函館公海漁業、大洋冷凍、極洋捕鯨の3社で競う形になり、締切日の2月10日までに大洋冷凍が14隻、極洋16隻、函館公海漁業が12隻で申請した。これら申請のなかに、22隻の二重契約船が判明し、残存3社(函館公海、大洋冷凍、極洋捕鯨)の調整の結果、函館公海漁業と極洋捕鯨が共同して1母船とすることで決着した(表1−34)。
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