通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第3節 敗戦後の函館の産業経済
2 北洋漁業の再開と函館

北洋漁業再開に至るまでの経緯

独航船の配分をめぐって

初年度の出漁と操業成績

函館公海漁業株式会社の設立

本格操業の開始

函館公海漁業の初出漁

基地函館の変貌

初年度の出漁と操業成績   P179−P183


母船の上で出漁を祝う宗藤市長
 対日講和条約の発効に伴い、マッカーサー・ライン内の日本近海と一部公海の操業に限られていた日本漁業は、再び自由な公海漁業へ進出が可能になった。その第一陣として、昭和27年5月1日、母船式サケ・マス漁業3船団が(表1−32)、北太平洋アリューシャン海域に向け、函館港を出港した。市にとっては待望の「北洋漁業の再開」とあって、街には「祝北洋漁業再開」のアーチが飾られ、華やかな花電車が走り、街中が北洋漁業の再開に湧きたった。出港前日には、北海道、函館市、函館商工会議所3者共催の祝賀会が、田中敏文北海道知事、宗藤大陸函館市長はじめ関係者500余名が出席して盛大におこなわれた(昭和27年5月1日付け「道新」)。また出港当日は、朝から打ち上げ花火が上がり、独航船が離れる西浜岸壁は、多数の大漁旗がはためき、見送りの人びとの波で埋め尽くされて、まさにお祭り騒ぎであった。
 華やかな見送りで出港したサケ・マス船団ではあったが、その前途には大きな不安が潜んでいた。サケ・マス船団の操業方式は、戦前の北洋でも経験をもつ母船式漁業であったが(『函館市史』通説編第3巻参照)、新たに出漁するアリューシャン海域は、濃密な魚群が来遊し、魚道が明らかであった、戦前のカムチャツカ海域とは異なり、出漁経験がなく、採算の見通しが立たない、まったくの未知の海域で、しかも濃霧や時化が多く、海難、作業事故など、安全面でも多くの危険が予想されたからである。 
 母船3隻と独航船50隻は、5月11日、アリューシャン海域のアムチトカ島南方北緯50度付近で最初の投網を開始した。漁獲成績は、6月上旬までの時化や海況の不慣れで振るわなかったが、それでも計画よりは上回っていた。その後50度線にそって西進し、許可海域の西端東経170度まできたところで、漁場拡張の声が高まった。水産庁は対ソ関係に考慮しながらも拡張を認め、図1−3のように、7月3日からは、新漁場で操業がおこなわれるようになり、漁獲量は急増した(昭和27年7月4日付け「道新」、『渡島北洋三十年史』)。
 昭和27年6月7日、北洋再開後、仲積船として戻ってきた第1船は第2黒潮丸(日水)であった。着岸したのは函館港ではなく、東京の築地で、ベニサケとシロサケの冷凍が1万1000貫、塩蔵が5000貫という成果であった。函館港の第1船となったのは、日魯漁業所属の「第一あけぼの丸」で、6月12日午後3時に着岸した。「鼻つく懐かしい匂い 赤銅のヒゲ面にどっと歓声」という見出しで「北海道新聞」がその模様を伝えている(6月13日付け)。積荷は表1−33のとおりで、ただちに定温倉庫に搬入された。16日には日魯漁業が指定した7社と独航船組合の指定した4社による入札がおこなわれた。9年ぶりの入札とあって、「サケの数よりも人の頭数が多いぞ」という冗談がでるほど盛況で、「かつての基地函館の貫禄をみせた」と新聞は報じた(6月16日付け「道新」)。こうして落札された品物の一部が、翌日の6月17日に市内のデパートや魚屋の店頭に姿を現した。一切れ20円のサケ切身が飛ぶように売れたという(6月18日付け「道新」)。
表1−32 昭和27年度出漁船団編成
                             単位:隻
会社名
母船名
調査
船数
独航船数 
道内
本州
合計
日魯漁業
第一振興丸(521トン)
2
5
5
10
日本水産
天竜丸(545トン)
2
5
5
10
大洋漁業
第三天洋丸(3,636トン)
3
15
15
30
合計
3
7
25
25
50
『さけ・ます独航船のあゆみ』より作成
表1−33 6月12日函館市場の入札情況
品名
数量(函)
価格(円)
落札者
改良紅サケ
61
1,600
函館海産物商業協同組合
同等外
1
1,050
同上
函切改良
182
1,435
神戸海産物
改良白サケ
200
1,080
京都魚市場
200
1,151
大阪魚市場
76
975
函館海産物商業協同組合
同等外
2
800
大阪魚市場
函切白サケ
185
1,080
京都魚市場
改良マス
3
780
名古屋海産物
紅筋子
13
2,200
函館海産物商業協同組合
同函切
2
2,000
同上
サケ筋子
13
2,700
同上
同函切
5
2,500
同上
クズ筋子
1
1,500
同上
昭和27年6月16日付け「道新」より作成
 また日本水産所属の仲積第1船「赤城丸」が6月21日函館港に入り、冷凍ベニザケを原料に万代町にある日水缶詰工場でサケ缶詰の製造が開始された(6月18日・29日付け「道新」)。
 再開第1年目の切揚げは、まず日水船団から始まり、母船天竜丸と独航船10隻、調査船2隻が8月3日午後3時、95日ぶりに函館港に帰ってきた。西浜岸壁には関係者や家族約200人が手に小旗を持って出迎えた。そして市営上屋において日本水産と北洋出漁組合共催による歓迎会が催されたのであった。日水船団所属独航船として傭船された函館船籍の「海祥丸」(所属は富山県)は、優秀な成績をあげたとして、水産庁長官から優勝旗と表彰状が授与された(昭和27年8月4日付け「函新」)。続いて8月6日に日魯船団(独航船のうち4隻だけは、7日に入港)が、同月12日には大洋船団が入港して初年度の北洋漁業はフィナーレをむかえた(8月7日・13日付け「道新」)。
 函館と渡島から出た独航船の成績は179頁の表1−31にあるとおりである。渡島北洋出漁組合はおよそ225万円の欠損金を出す事態となり、早急に再建計画にとりかかるという深刻な事態を招いた(『渡島北洋三十年史』)。
 各船団の漁獲物は、たとえば日魯漁業の母船第一振興丸と調査船黒潮丸は、その積み荷の冷凍・新巻サケ、筋子などを東京に揚げるといい(昭和27年8月7日付け「函新」)、大洋漁業も母船第三天洋丸の積荷23万2000尾を東京に揚げることになっていた(昭和27年7月13日付け「道新」)。このように、かなりの部分が大市場をかかえる東京に荷揚げされ、戦前とは違ってすべて函館へとはいかなかったのである。
 昭和27年度の北洋漁業の成績は、最終的には211万3000尾を漁獲し、総売上高は6億5100万円に達した。漁獲物は、おもに塩蔵品に加工され、京浜、阪神地区で販売された。なお缶詰生産は、日魯漁業と先にも述べたが日本水産が、陸上工場でおこない、それぞれ2000箱程度の缶詰を生産した。出漁前に懸念された漁獲成績は、計画を上回り一応の成果を納めることができたが、母船と独航船の共同精算の過程で双方の処理基準の相違から、利益金の配分協議が難航した。利益金は、製品の総売上高から母船と独航船の経費を差し引き、それを母船、独航船の出費比率で配分することになるが、双方の経費の査定や出費比率についての合意が得られず、出漁前に始まった協議は、漁期中も続けられ、切揚げ後の9月中旬、仕込み物資や乗組員賃金の精算直前にようやく妥結した(日本鮭鱒漁業協同組合連合会『さけ・ます独航船のあゆみ』)。
図1−3 昭和27年、28年の許可海域

『渡島北洋三十年史』より
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