通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 独航船の配分をめぐって |
独航船の配分をめぐって P176−P179 前述の3社2団体は、その後打ち合わせを重ね、具体的な調整をおこなった。3月7日に水産庁で独航船の割り振りを中心に協議がもたれ、共同経営の方式がほぼ妥結し、8日に以下のような覚書に調印した(北洋会『北洋』第1巻第1号)。(一)許可の申請は五者の共同申請とすること 函館の漁業者の関心は、独航船のうち何隻を確保できるかということと、適格船をどうやって手に入れるかということであった。新聞は函館では独航船は7隻以上10隻以内を要望しており、適格船入手については、かなり困難があると報道している。というのも函館には50トン以上の船がほとんどないうえ、40トン以上でもディーゼルエンジンを装備しているのは、3隻だけという。北海道内では遊休している船はないので、いきおい違法ではあるが本州からチャーターして共同経営ということも考えられると推測している(昭和27年3月17日付け「道新」)。 昭和27年3月16日、北海道は知事の諮問機関として北洋出漁審議会を結成し、蛯子水産部長が委員長となって、独航船選定基準などを協議した。そこでは、船の規格や所属組合、北洋出漁経験、出資金など、7点の基準事項が確認された。翌17日同審議会の小委員会で、その基準にそって配分が決定され、道漁連8隻、北海道公海漁業組合(旧北洋公海組合を指すと思われる)7隻、底引連6隻、開発連4隻と決まった。これは平等割、実績割、実力割、特殊割と、トラブル回避のための精一杯の審議内容だったという(3月17日・18日付け「道新」、『渡島北洋三十年史』)。その後3月24四日になって、前述の割当を基礎に、地区割が発表され、函館には6隻が配分された。これをうけ、函館では3月26日に日魯漁業の会議室に関係者が集まり、「函館北洋出漁組合」(仮称)を設立し、1口5万円の出資金を募り、6隻の独航船を経営することにした(3月28日付け「道新」)。この時選出された役員は表1−30のとおりである。この組合については詳しくわからないが、戦前の封建的な制度では母船の従属物でしかなかった独航船が、組合を作って母船と対等の立場で出漁するということは、画期的なことであったという(『渡島北洋三十年史』)。 なお、4月1日に北洋出漁にかかわる北海道関係者の打ち合わせ会が札幌で開かれ、任意組合である北海道北洋組合を、法的な業種別組合「北洋漁業協同組合」に改組することを決定した。この会場で独航船の船名と代表者名が公表されたが、函館ならびに渡島分は表1−31のようであった(昭和27年4月2日付け「道新」)。函館の場合、近江政太郎は元日魯漁業の幹部であり、森山は旧北千島漁業者、川筋は開発連系、三崎、酒井、村井は函館市内の漁業者である。彼らはあくまで出資者の代表であって、具体的な独航船の経営内容はわからない。先にもふれたとおり、独航船の確保はたいへんなことであり、市内はもとより道内では調達できずに本州船を使用せざるを得ないものもあった。「龍王丸」の場合は、小樽から傭船したもので、経営主体は東邦水産であったという(永野弥三雄談)。 なお、渡島は当時宇賀漁業協同組合長だった藤谷作太郎を中心に「渡島北洋出漁組合」を結成して道漁連の8隻枠のうち2隻の権利を得て出漁したが、初年度の苦労は並大抵ではなかったという。自己資金に乏しく、道漁連や北洋漁業協同組合から1090万円を借り、三笠丸は小樽から160万円で傭船して組合が直営したが、明神丸は岩手県から傭船したもので、経営は船主60パーセント、組合40パーセントの損益配分での経営であった(『渡島北洋三十年史』、『函館市史』銭亀沢編)。
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