通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 北洋漁業再開に至るまでの経緯 |
北洋漁業再開に至るまでの経緯 P170−P176 北洋漁業の復活は、「北洋漁業の策源地」として発展を遂げてきた函館にとって、永年にわたる悲願であったが、北海道の水産団体や漁業会社の有志が中心となり、早くも昭和21年11月2日に、北洋漁業再開を願う「北洋漁業再開請願道民大会」が、函館で開かれた。さらに同22年6月20日、第2回大会が、市内宝劇場に1000名の市民を集めて開かれた。大会には、函館市長(代理宗藤助役)、函館市議会議長、函館商工会議所会頭はじめ、各界の代表が出席して、北洋漁業の再開に向けて活発な活動を始めることを決議し(昭和22年6月13日付け「函新」、22年6月21日付け「道新」)、函館市長坂本森一を会長に、戦前千島、沖取漁業で活躍した小川弥四郎、西出孫左衛門、原忠雄(平出喜三郎の女婿)、大洋漁業函館出張所所長森七郎をはじめ、旧北洋漁業関係者を実行委員とする「北洋漁業開発期成同盟」を結成した(『函館公海漁業二〇年史』)。期成同盟は、函館市内のほかに、札幌や網走などで大会を開き、北洋漁業再開の運動を全道に拡大することを図った。この間、坂本函館市長(22年9月逝去)の跡を継ぐ宗藤市長は、「北洋漁業再開の暁には函館市を船団の基地とするよう」水産庁に陳情をおこなっている(同前)。船団基地を函館に誘致することは、宗藤市長の選挙公約でもあり、市長としては、まず第一に「北洋漁業基地函館の復活」を考えたことになるが、同時に函館から母船を出そうという思いは、水産界のみでなく、全市をあげた念願でもあった。また限定された海域内でしか魚を捕れないという事態は、北洋関係のみならず日本の漁業者にとって、いつまでも我慢できるものではなかったのである。講和条約を結んでマッカーサー・ラインを撤廃し、公海自由の原則のもとで世界の海に進出するというのが彼らの悲願であった。 それに対し、北米の漁業者たちは戦前の日本漁船の操業ぶりから、その復活に対し、強い不安を持っていた。そのため、まずアメリカ・カナダとの漁業条約締結が先決事項となったのである。 講和条約に先立つ昭和26年11月5日、日本政府の主催により、日米加三国漁業会議が東京で開催された(昭和26年11月6日付け「道新」)。会議の焦点は国際法上の権利である「公海の自由」を確保したい日本と、自国漁業者の意向を受けて何とか日本漁業者を締め出したいという米・加側との駆け引きにあった。交渉は何度も決裂したが、結局建前上、日本は「公海の自由」という原則は墨守しながら、実質は米・加への譲歩を認めたかたちで決着がついた。同年12月14日に仮調印された3国間の漁業条約では、特定漁場(サケ・ニシン・オヒョウ)の漁獲については日本は自発的に抑止するという約束をした。最後まで問題となったのは、アリューシャン海域のサケについてで、太平洋上の西経175度以東には日本船は入らないというものであった(昭和26年12月15日付け「道新」)。当然日本の漁業界は反対したが、日本政府顧問の平塚常次郎が「まずマッカーサー・ラインを撤回し、北洋出漁を再開することが先だ」として、妥協がなったのであった。この時日本国内では平塚への批判があったが、その後をみると先見の明があったという評価もある(板橋守邦『北洋漁業の盛衰 大いなる回帰』)。こうして、まず27年4月28日の講和条約が成立して、マッカーサー・ラインが撤廃され、続いて5月9日に日米加漁業条約が本調印されたのである。
北洋漁業再開にかける函館市内の関連産業の期待も大きかった。「北洋再開張り切る製網、造船」、「全部函館製も″OK″」という見出しで、業界に活気がみなぎっていることを報道している記事からもその一端がうかがえる(昭和27年2月7日付け「函新」)。また「干天の慈雨北洋漁業再開」、「函館職安 北洋漁業に失業者開拓」という見出しの記事からは、深刻だった函館の失業者問題もこれで緩和されるのではないかと期待されていたことがわかる(昭和27年1月31日付け「函新」)。 函館に限らず北洋漁業への参画意欲は各地で高まっていた。北海道の場合、沿岸漁業は八方ふさがりで、その現状打破のため、「全道漁民による北洋出漁」というスローガンが生まれていた。なかでも渡島管内は、樺太、千島の引揚漁業者が多数入り、それに見合うだけの沿岸資源に乏しかったので、貧窮のどん底にあり、北洋漁場にかける願いは道内一といっても誇大ではなかったという(『渡島北洋漁業協同組合三十年史』、以下『渡島北洋三十年史』)。 こうしたなか、調整を図って新会社を作るという政府案はなかなか進展しなかった。カニ漁業(母船式)は、最終的に大手3社(日魯漁業、大洋漁業、日本水産)の調整になったが、話し合いがつかず、3社の争いが「三船団出漁」とアメリカの新聞に誤報され、これがもとでアメリカで日本船出漁反対運動が起こるという事態に発展した。日本政府はこれ以上問題を発展させたくないとして、ついに昭和27年3月7日広川農相が、カニは出漁を断念するという談話を発表した(前掲『北洋漁業の盛衰 大いなる回帰』)、昭和27年3月8日付け「道新」)。 一方、サケ・マス漁業については2月初旬段階で出願していたのは(この段階ではカニも含んで)、前述の大手3社に加え、北海道漁業協同組合連合会(代表岩田留吉、以下、道漁連)、北太平洋漁業者協同組合(代表小田積美)、北洋サケマス流網出漁組合(代表近江政太郎)の3団体であった(昭和27年2月8日付け「函新」)。 北海道では道庁があっせんして、北海道の出願者はひとつにまとまって対抗しようという動きが現れた。こうして2月14日、関係者が集まって「北洋漁業株式会社」の設立総会が持たれた。一方、独航船を主体とする「北洋漁業組合」も同時に設立総会がもたれ、北海道からはこの2組織が共同出願することになったのである(昭和27年2月15日付け「函新」)。しかし、16日になって中央情勢の変化から、この2組織を一本化して「北海道北洋出漁組合」として出願する事に変更された。中央情勢の変化とは、出漁形態として独航船だけで船団を組むことは認めない、すなわち母船式漁業(魚類の加工品製造設備を持った大型船=母船と付属漁船=独航船が一体となる集団操業)のみに限定するという政府の方針を察知したものかと思われる。
ところが、このように北海道が一本化しようという時に、さきにふれた函館母船式鮭鱒組合では、西出組合長らが上京し、農林省とかけあって、ほかの函館の出願者とまとまって1組合を作れば許可されるという意向を得て、別な動きを始めている。新聞は政府が北洋漁業に対する函館の特殊性をみとめたものであるとしているが、ともあれこの情報をもとにこれまで函館から出願している「函館母船式鮭鱒組合」と「北洋サケマス流網漁業組合」、仮称「函館市漁業協同組合」の3組合の代表者が宗藤市長を交えて協議し、函館として一本化し全市一致の態勢で出願しようということになった(昭和27年2月19日・20日付け「函新」)。こうして2月20日に函館の出願者をまとめた「函館公海漁業組合」の創立総会が開かれ、理事長西出孫左衛門、副理事長原忠雄、理事近江政太郎ほか15名、監事3名が選任された(昭和27年2月22日付け「道新」)。こういった一連の動きをみると、函館の関係者には中央との強いパイプがあったともみえるが、「北海道新聞」は裏話として、背景にある政治的な動きを記事にしている。大筋は次のようであった。 「函館の全独航船計画者を北洋鮭鱒漁業流網出漁組合にまとめ全市一本で猛運動しようという市の腹構えがあった。その際市内沿岸漁業組合の統合組織、函館漁業組合(仮称)も賛同したかにみえたが、富永(格五郎)代議士が急遽、函館漁業組合だけの出漁計画をもって農林省に出向いた。平塚常次郎が日魯漁業を背負って立ったのではじっとしていられなかったのだろう。前後して川村(善八郎)代議士も動きだし道漁連に働きかけ一役買って出た。第三区衆議院議員選挙の序曲がかなでられるといった鳴物入りの出漁騒ぎとなった。結局函館市は白紙の立場に追い込まれた」(昭和27年2月9日付け)。こうしてみてみると、政治的な背景もあり、出漁許可をめぐって函館はかなり錯綜した状態であったことが推測される。 2月19日、政府は北洋漁業について次のような方針を公表した(昭和27年2月20日付け「道新」)。 一、北洋漁場は日米加三国漁業協定とソ連の動向が不明のため戦前より漁場が極限され、しかも漁場価値は一切不明である |
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