通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 北洋漁業の壊滅 |
北洋漁業の壊滅 P157−P158 敗戦によって、日本人の漁業活動も大きな打撃を受けることになった。後で詳しく述べるが、日本漁船が操業できる海域は、マッカーサー・ラインで設定された狭い範囲に限られてしまったのである。この措置によって、それまで函館の産業経済と市民生活を支えてきた北洋漁業(露領、母船式、北千島漁業)と樺太・南千島漁業の漁場は失われた。戦時下、北洋漁業を独占していた日魯漁業株式会社では在外資産に限ってみても、損失額の合計は5536万2824円で、そのうち70パーセントがカムチャツカや北千島など漁業現場の資材であった。51パーセントが漁業権、工場権などの無形固定資産で、残りが建物(19パーセント)、機械装置(18パーセント)、漁業用船艇(7パーセント)といったように、事業現場で使用された生産設備であった(岡本信男編『日魯漁業経営史』第1巻)。もちろん北洋漁場の喪失は日魯漁業という企業の損失だけではなく、いわば日魯漁業の城下町であった函館市にとっての痛手も計り知れないものであった。当時函館市の助役であった葛西民也は「函館の経済界が失った北洋漁業の損失は、当時全財政の四九パーセントと計算された……函館は、北洋漁業の″策源地″であって、物資の集散地でした。つまりそのマージンで生きたところです」と語っている(『函館公海漁業二〇年史』)。 北洋漁業に全投資の99パーセント以上を投じてきた日魯漁業にとって、北洋漁場の喪失は、ほとんど再起不能を思わせる深刻な事態をもたらしたが、戦災で荒廃した国土と後述するとおり狭い近海漁場のなかで、再建策を講ずることは極めて至難の技と考えられていた。その上、平塚常次郎、河野一郎という経営トップ、および創業以来、経営を支えてきた外山源吾、堤清治郎、近江政太郎の首脳陣、新谷俊蔵監査役と合わせて6人の重役が、GHQの公職追放指令により退陣することになり、日魯漁業の再建は一層困難とみられていた。このほか日魯漁業にはソ連に抑留された従業員の帰還といった、解決を迫られる難問を抱えていたのである(前掲『日魯漁業経営史』)。 戦時中の出漁でカムチャツカや北千島においてソ連に抑留された従業員の消息は、しばらくの間、音信不通の状態が続いた。この北洋漁場従業員の帰還実現に向けては、北洋労務懇話会、北海漁業労組などがGHQはじめ関係機関に積極的な働きかけをおこなっていた。昭和21(1946)年3月8日には、北洋関連の漁業会社と関係官庁、民間団体が集まり「北洋漁業従業員引揚期成同盟会」を結成したことが新聞で報道されている(昭和21年3月10日付け「道新」)。実際に抑留者たちが帰って来たのは、翌年のことであった。昭和22年10月17日、樺太からの引揚船雲仙丸で北千島漁場の従業員1477名が函館に帰り、次便の千歳丸でカムチャツカ漁場の従業員655名が帰還した(今田正美『日魯漁業株式会社社史』第4編)。しかし現地幹部職員のうち19名は、スパイ容疑などでソ連軍に連行され、シベリアで長期抑留された。そのうち11名は死亡、生き残った8名も帰国したのは昭和30年以降であった(前掲『日魯漁業経営史』)。 後述するように、マッカーサー・ラインが撤廃されて昭和27年に北洋漁業が再開されるまで、日魯漁業は北海道沿岸における各種漁業や戦前まったく経験のなかったカツオ・マグロ漁業と下関を基地とするトロール、以西底引漁業(以西漁場は東シナ海、黄海漁場の総称)で何とか切り抜けざるを得なかった。 |
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