通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 4 函館俘虜収容所の設置 収容所の機構 |
収容所の機構 P1273−P1274 さて、函館俘虜収容所の機構は、昭和18年に入って上磯町に第1派遣所、20年3月には函館市に第2派遣所が新設された。この間の19年4月には、第2、第3の両分所が仙台俘虜収容所の管轄となり、この時点での函館俘虜収容所は、本所(函館)と第1分所(室蘭市)、第1派遣所(上磯町)の3施設であった。20年3月になって、本所と第1分所、第1、第2派遣所という4施設の体制となるのである。その後、20年6月7日、函館俘虜収容所は、第1、第2派遣所を閉鎖した上で、本所と第1分所が内陸の産炭地に移転し、本所は美唄町の三井美唄炭鉱、第1分所は芦別町の三井芦別炭鉱に、新設された第2分所は赤平町の住友鉱業赤平鉱業所に置かれた。そして、同年6月29日には主に士官を収容する第4分所が芦別町に、また7月7日には、第3分所が歌志内町の北炭空知鉱業所内に置かれるのである。 ただし、函館俘虜収容所の名称は変わらず、当時の細井篤郎所長が本所に移ってないらしいことから、指揮系統の一部は函館に残されていたとも考えられる(白戸仁康「三井美唄炭鉱における第二次大戦末期の『函館俘虜収容所』」『地域史研究はこだて』第11号)。 次に、収容された俘虜数は、昭和17年度末の774人から、18年度末1360人、19年度末912人、20年度(敗戦時)1591人という推移をたどった。なお表3−43に示すように、敗戦時の20年8月15日現在では、1597人という数字もある。同表によれば、収容俘虜の約52%はイギリス人で、次にアメリカ人が31.6%を占め、この両者を合わせると83.5%の高率となっている。 各施設別の収容者数は、敗戦時には、本所396人(士官6人)、第1分所509人(同5人)、第2分所281人(同7人)、第3分所311人(同2人)、第4分所100人(同93人)となっている。
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