通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 4 函館俘虜収容所の設置 函館俘虜収容所の開設 |
函館俘虜収容所の開設 P1271 太平洋戦争開始から約1年後の昭和17(1942)年12月26日、函館市台町27番地の函館検疫所構内に函館俘虜収容所が設置された(仮開所は同年12月1日とされる)。この俘虜収容所には、アメリカ人・イギリス人・オランダ人・オーストラリア人などのいわゆる白人が収容されており、香川県善通寺(昭和17年1月開設)、大阪(同年9月23日開設)、東京(同年9月25日開設)に次いで、日本国内では4番目の設置であった。その後、国内の俘虜収容所は福岡(昭和18年1月)、仙台(実際の設置場所は岩手県黒沢尻町)・名古屋・広島(いずれも昭和20年4月)にも開設されている。捕虜と俘虜 P1271−P1272 ちなみに「俘虜」とは、戦場で捕獲された者、すなわち「捕虜」が、「俘虜銘々票」への記載など一定の手続きを経て相手国の保護の下に抑留された状態の者(Prisoner of war)を指し、その前提として、宣戦布告によって開始された「正式の戦争」での「俘虜」であることが条件であった(茶園義男編『大日本帝国内地俘虜収容所』不二出版、1986年)。したがって、日本政府の見解では、宣戦布告を伴わない「支那事変」は「正式な戦争」ではなく、「中国軍隊に属する者を捕獲した場合に之を俘虜として取扱ふことなく日華和平の協力者として取扱った」(同前)のである。ゆえに、第2次世界大戦下において、日本側が「俘虜」とみなした者は、圧倒的にいわゆる「白人俘虜」と呼ばれる人びとによって占められることとなる。太平洋戦争中に日本軍が捕獲した俘虜などの総数は16万7930人で、これを日本内地および外地の17か所の俘虜収容所に収容したが、収容期間中に病気などで死亡した3万8135人を除いた12万901人が「俘虜取扱規則」の対象となった(俘虜情報局『俘虜取扱の記録』昭和30年、茶園義男著『十五年戦争重要文献シリーズ』第8集(不二出版、1992年)所収、数字は原文のまま、以下の引用も同書による)。そして、内地の収容所には、敗戦時で3万2418人が収容されていたから、俘虜全体の約20%程度が内地に送られたことになる。開戦当初、軍中央部は各戦場での俘虜を収容するために、国内の善通寺、中国では上海と香港、南方ではマニラ、シンガポール、バンコクにそれぞれ収容所を設置する計画を立て、善通寺には、前述のように昭和17年1月、上海には同年2月、香港には同年1月にそれぞれ俘虜収容所が開設された。一方、南方地域では収容所の設置が遅れ、17年4月には、俘虜や地元民の総数は約30万人にも達した。このような状況は国際的にも不利な面が多く、一部の俘虜を朝鮮や台湾に移すと共に、同年7月から8月にかけ、フィリピン、タイ、マレー半島、ジャワ、ボルネオの各地に収容所を設置した。 俘虜の函館輸送 P1272−P1273 一方、日本内地での労働力不足も次第に顕著となってきたため、17年後半になると「南方俘虜」の内地輸送が行われるようになった。函館俘虜収容所に移された俘虜は、17年10月から11月にかけて、シンガポールから東福丸で輸送されたジャワ島の俘虜1200人(船中死亡27人、入院患者136人、遺骨47柱)の一部で、門司に入港後、東京と函館に移管されたものである。なお『俘虜取扱の記録』は、「函館ふ虜収容所の開設と収容」について次のように記している。「函館ふ虜収容所は昭和十七年十二月二十六日編成完了して開設した。ふ虜の収容は開設以前の同年十一月三十日『東福丸』のふ虜二〇〇名を、続いて同年十二月一日同じく『東福丸』の六〇一名、計八〇一名を収容した」。 したがって、函館俘虜収容所の正式の開設は、同年12月26日であろうが、12月1日にはすでに俘虜が到着し、「仮開所」の状態となっていたのであろう。 このことは、函館俘虜収容所の沿革を示した表3−42からもうかがうことができる。すなわち、昭和17年12月26日の収容所本所の開設に先んじて、12月6日室蘭市に第一分所が、また11月30日、釜石市に第二分所がそれぞれ開設されているからである。そして、この収容所には、前記の『俘虜取扱の記録』によれば801人の俘虜が到着したとあるが、同書の付表第五「俘虜国籍別階級別人員表」には、昭和17年度末人員として774人の数字がある。また、茶園義男の調査によれば、17年中の俘虜患者は94人、死亡者は33人となっている。このことから逆算すると、開設時の函館俘虜収容所には、少なくとも807人の俘虜が収容されていたと考えられる。
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