通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
3  強制連行と捕虜問題

2 朝鮮人の強制連行

強制連行の開始

協和会の設立

朝鮮人の「移入」状況

函館市の事業場

東日本造船(株)の場合

函館船渠(株)の場合

朝鮮人労働者の抵抗

函館船渠(株)の場合   P1249−P1250

 函館船渠(株)における朝鮮人労働者の状況については、昭和18年12月25日付けの「北海道新聞」に、「○○船渠工場で戦力増強に挺身してゐる半島人工員が○○名ゐる」との記事があるが、その詳細は不明である。しかし、翌19年2月4日付けの同紙では、次のように報じられている。

 日夜生産戦線に敢闘する函館ドック○○工場の半島人百三十名が″増産と貯蓄″に文字通り挺身、昨年四月以来八ヶ月間で一人の貯蓄高が最高一千二百六十四円四十銭、最底三百円に達し、平均八百円の貯蓄金字塔を打ち樹てた。○○工場所属青雲寮にある半島戦士百三十名は、隊長の西原載泰君(□四)を陣頭に隊員の一人々々が燃え上る貯蓄熱をもつて奮起し、内地人もおよばぬ成果を収めたのである。彼等は、
 一、不平は敗者の言なり
 一、生活は簡食簡衣をもつてせよ
 一、常に新しき心は常に汗が伴ふものなり
の三ヶ条を信条として、勤労で得た収入をそのまま貯蓄にふりむけた「余つた金を貯金する」ではもう古い。彼等は一ヶ月間の生活費を、たつた十五円と固く決めてゐる。そして、どうしてもこれで間に合はない場合は断食してまで押し通す。最も働く工員が月二百五十円からの収入があつてこの生活の切り詰ぶりだから、貯蓄額も、もりもり殖える、入寮時は食物が悪いとか少とかいつては不平を並べてゐたが、彼等がこれほどまでなつたのは、実に青雲寮西村舎監の指導によるものだ(下略)。

 このような新聞に掲載された記事でみた限りにおいてであるが、函館船渠の場合は、昭和18年中に朝鮮人の「入地」が認められ、彼らは、青雲寮と至誠寮に収容され(至誠寮については後述)、青雲寮には130人の朝鮮人がいた。至誠寮の規模は不明であるが、この2寮を合わせて、少なくとも200人以上の朝鮮人が働いていたのではないかと思われる。また、東日本造船函館工場でも、昭和18年春には、朝鮮人の使用が開始されていることが明らかであり、昭和20年3月には、少なくとも192人の朝鮮人が在籍していた。なお、同社釧路工場には、同18年9月3日に「約○○名の半島戦士が造船工」として「入地」、3班に分かれて勤務についている(昭和18年9月23日付「道新」釧路版)。
 彼等の労働の実態についても、それを示す史料は乏しい。が、東日本造船釧路工場では、「総員起床の合図は五時半に鳴る、寮長の根田重晴兵長が寮生達が未だ脚絆も巻き終らぬ内に、もう木銃片手に廊下に立つてゐる」、「食事前十分、皇居と家郷への礼拝、それが終ると食事であるが、食事もこゝでは一つの訓練になつてゐる、国ぶりである汁かけ飯とか片立膝の姿勢は御法度である、最初は最年長者五十幾才の戦士は、ともすると国ぶりを発きしそうになつたが、この頃では大分矯正された」(同上紙)こと、午後4時までは、日本人工員と共に「木材運搬と地ならしの労働を行」い、4時からは軍事訓練の実施(昭和18年9月20日付同上紙)といった記事の内容からみて、朝鮮人労働者の日常が、「国ぶり」の発揮を厳しく規制された極めて厳しい状況に置かれていたことが窺える。
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