通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 2 朝鮮人の強制連行 協和会の設立 |
協和会の設立 P1244−P1246 こうした状況の中で、内務省は「日本内地に居住してゐる半島人を教育教化し、さらに国民精神の涵養と生活一般の改善向上を図る」(昭和14年10月8日付「函新」)ために、まず東京在住の朝鮮人を中心とする中央協和会を結成させ(昭和13年11月9日)、その組織を全国的に拡大することを計画した。北海道では、翌昭和14年9月12日、北海道庁長官を会長とする北海道協和会が設立され、道庁社会課内に事務局が置かれた。その下に、道内の各警察署単位に支部が結成されることになり、函館市でも、函館署協和会の設立準備が進められた。前掲の昭和14年10月8日付け「函館新聞」および「函館日日新聞」によれば、その目的は、「半島人」の教育教化、国民精神の涵養、風俗の改良、生活一般の改善と向上を図り、国民的行事に習わせる事、一般経済と救済を行ない、日本国民化する指導、にあった。会長には函館警察署の織田署長、副会長には函館市役所羽賀社会課長、幹事長には谷岡特高主任がそれぞれ就任し、「近く結成される筈」との見通しを報じている。その過程で注目すべきことは、「田村春源氏が会長の新興会を函館協和会と改称せしむるものである」(「函新」)、あるいは「当市在住半島人を以てする新興会(田村春源氏会長)は解消し、約二百家族の半島人は新たに協和会に所属することになつてゐる」(「函日」)と社によって若干のニュアンスの相違はあるものの、既存の新興会が函館署協和会設立の基礎になろうとしていることである。但し、昭和15年10月発行の『特高月報』に、「北海道庁協和会にありては、最近朝鮮人の来往の繁きに鑑み、函館市に同協和会出張所を開設し、之等朝鮮人の保護斡旋に当たることとせり」とあるように、実際の設立は15年1月16日であった。1月17日付けの「函館日日新聞」は、「半島人に日本精神/赤誠の旗印に函館共和会生る」との見出しで次のように報じた。 すなわち函館市内には現在「六百余名の半島人」がいるが、彼等は従来「浮動性」大にして定住観念がうすく、これを憂慮した「同郷の先輩有志」が、昭和3年に相親会、同12年に函館新興共済会という親睦団体を組織して現在に及んでいるが、「内鮮一体、同胞相愛」の理想と目的達成のために中央協和会が設立され、続いて北海道協和会も設立されたので、その下に函館協和会を設立するため函館署が中心となり、織田署長を委員長とする準備会が「準備工作」を進めてきた。そして、1月16日午後1時、函館署3階講堂で会員600名および来賓100余名が参集して盛大な発会式を挙行した。会長は織田署長、副会長は川南社会課長、牛駒渡島支庁総務課長、幹事長は谷岡特高主任、幹事は「半島人側有志」と決定、発会式の席上「半島人功労者」である魏春源、金武吉の両名に金一封が贈呈された。この結果、函館協和会も北海道協和会の一翼として積極的活動を開始することになったのである。なお、その際に次のような決議を行っている。 決議文 このように、協和会の設立も実現し、函館市における朝鮮人労働者受入れの条件は、それなりに整備されていった。しかし、函館における強制連行の実態を具体的に物語る史料は、断片的なものしか残されていないのが実情である。恐らくそれは、北海道における朝鮮人強制連行の中心が、以下に述べるように炭鉱と鉱山であったからである。 いま、昭和14年かち同16年8月末までの北海道への「募集雇人」朝鮮人数を、石炭山・金属山・土木建築の3業種に区分してみると、石炭山は2万4475人の募集許可数に対して1万9418人、金属山は、同じく4976人に対して3897人、土木建築も、同じく5860人に対して4028人という状況であり、計2万7343人の雇入れ数に占める石炭山の割合は、71%に達していた。ちなみに金属山は14.3%、土木建築は14.7%であった(『昭和十五年度北海道重要事項概要』)。 |
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