通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 学童集団疎開 |
学童集団疎開 P1191−P1193 昭和19年以降の米軍機による空襲の激化に伴って大都市の学童の疎開が実施される。空襲は地方都市にも及び、函館でも昭和20年7月14日空襲を受けるが、その前後から学童の疎開の動きが具体化している。函館の学童集団疎開については、すでに詳細な研究成果が公にされているので(浅利政俊編著『証言 日本最後の学童集団疎開』)、ここでは若松国民学校の「日誌」によって、学童集団疎開の実施状況を見ていくことにしたい。同校の「日誌」に疎開の記事が現れるのは昭和20年7月2日のことである。当日、学校長は「縁故疎開勧奨」「児童短期合宿訓練」「二日ヨリ十日マデ登校停止」などに関して訓話を行っているが、同じく校務の記録には「疎開証明書発行」の件も記録され、先ず、縁故疎開の勧奨とこれに応ずる動きが具体化したことが明らかになる。 同じ頃、若松国民学校では、短期の集団疎開訓練である「短期合宿訓練」が行われた。校長訓話の「児童短期合宿訓練」の記事と並んで、7月2日の「当直」「文書処理」の欄に、「疎開児童ノ蒲団ハ各自持参ヲ本体トスルガ、…トラックノ間ニ合ハナイ場合ヲ考ヘテ、三日分ノ米ヲ各自ニ行軍ノツモリデ持参サセルコト」とあり、短期合宿訓練と疎開が同一の行事でおこなわれたらしいことが推測される。この短期合宿訓練の実施要領が、7月3日の「校務」「行事」欄に次のように記されている。 短期合宿訓練ニ就テ 若松国民学校では、続く7月6日、学校長より「集団児童付添職員」の苦労話などの訓話があり、「本日疎開集団へ用具諸々小使ヲシテ届ケシム」という「集団児童」と「疎開集団」の記事が記録され、集団訓練=集団疎開訓練であることを推測させるものとなっている。以降は、「学校長集団疎開児童慰問ノ為銭亀沢ヘ」(7月7日)の記事があるなど、集団疎開が学校の主要な行事となっていたことがわかる。また9日の「当直」「文書処理・記事・来校者」欄の記事には、「教育課ヨリ」として、「集団訓練二日日延べ」の件が記録され、翌10日は、この件を「集団疎開二日延長」と記録している。これで集団宿泊訓練=集団疎開訓練であったことが明らかである。ともあれ2日の延長になった集団疎開訓練について、学校側では「児童父兄ヘ」「児童ヲ通ジテ」あるいは「三町会事務所ヨリ回覧板ニテ」通知の方法をとった(7月10日)。この日延べと関係があるのであろう、同日、銭亀国民学校へ「米味噌醤油、魚」が運搬され、「教頭、疎開児童見廻リ銭亀沢校ヘ宿泊」と記されている。2日間日延べになった集団疎開児童も、7月12日には、「午後二時半集団疎開児童元気ニ帰校解散」。翌13日には、学校長より、「第二回集団疎開訓練実施ノ予定ニツキ希望申シ出ル様ニ」連絡があったが、14日には、函館市は米軍機による空襲にあい、それを機に疎開の動きが本格化するのである。 7月18日、「児童疎開ニ関スル件」に付き緊急職員常会が開かれる。同日付の「日誌」には、「該児童調査報告ス」とあり、疎開希望者は、3年以上が69人、1、2年が14人、付添12人、付添幼児12人であった。21日、「疎開児童父兄召致シ懇談ヲ開ク」。22日は日曜日であったが、学校長は、「大森校ニテ疎開ニ関スル協議会アリ、出席セラル」と、急速に疎開への準備が進められる。24日には「教頭児童第二回集団疎開先野田追村に出張先方と種々打合午後七時半帰校」し、翌25日には疎開児童らがいよいよ出発する。25日、「午前九時十五分発」「児童五十三名 集団」「父兄二世帯 分散」、「野田追村ニ途中無事安着」、出迎えの式が行われ、疎開先の「建長寺」に落ち着くこととなった。校長、教頭をはじめ、両角、隅田、酒田、中田、石山先生が随伴した。この日以後、校長、教頭は交互に野田追へ出張、それは終戦の日まで続けられる。その後8月11日には、「陸軍写真報公隊」の来校があり、「野田追疎開状況写真撮影ニ行ク旨申シ出アリ」と記録されている。 8月14日、「詔書換発」があり、敗戦を迎える。3日後の18日「集団疎開児童帰校午後一時半着函無事父兄へ引渡ス」ことで、若松国民学校の25日間に及ぶ集団疎開は終わっている。25日には「学校長教頭外二名野田追村ヘ謝辞出発」しており、学校としての疎開の締め括りがなされたことがわかる。 |
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