通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 勤労動員 |
勤労動員 P1190−P1191 昭和期の日本は、昭和6年の満州事変から、12年の日中戦争へ、そして16年の太平洋戦争へと、戦争拡大の道を突き進んでいったが、教育もまた戦時体制の一環に組み入れられ、年とともに戦時色を濃くしていった。戦時体制下の労働力の不足に対応する、学生生徒らの勤労動員もそうした教育の動向を示すものであった。昭和18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学生生徒を労働力として勤労動員する体制が確立された。次いで昭和19年3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」の閣議決定によって、中等学校程度以上の学生生徒の通年動員体制がとられることになるのである。さらに同年7月には、労働力需要の急迫によって、国民学校高等科児童も継続的に動員できることが閣議決定され、農林水産業や工場などの労働力として出動することになった。 国民学校児童の動員の状況は、同年11月17日の「北海道新聞」によれば、「学徒勤労令の強化によって国民学校高等科の児童も動員されることになったので函館市のよい子らも市内17箇所の工場事業場に戦闘配置につき敢闘中である」という。このような動員学童は、中等学校生徒に比べて心身ともに幼いので、市当局でも心を労し、受入れ側と懇談の結果、「工場事業場の責任者をもって組織」された函館市国民学校勤労動員後援会が、全国に先駆けて結成されたといわれている。この後援会は「学童教育即勤労の実をよりよく挙げるため精神的物質的援助を行う会」で、この後援会の重要な意義は関係学校教職員との連絡にあるため、「学童はあくまで受持訓導の指導下に賃金、学力等の問題をはなれて挺身の実をあげることが出来」、もう1つは「職場における学童待遇の平等化」で、これは後援会の協約によりある工場のみが学童を吸収するなどの弊が避けられた。 |
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