通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 北千島鮭鱒定置網漁業の合同 |
北千島鮭鱒定置網漁業の合同 P1186−P1188
一方、それまで対ソ関係を気遣い北洋漁業の統制を強化してきた農林省は、北千島の定置網もその統制下に置くため、北海道庁を通じて定置網漁業者の合同を勧奨した。先の北千島漁業行政移管案に対して、反対の意思表明を行っていた北海道庁は、この定置漁業の合同には積極的に乗り出した。15年10月14日、漁業者を集めて合同問題を協議した北千島漁業統制協議会には、戸塚九一郎長官が自ら出席して議長席につき、直接会議の進行に当たった。長官は冒頭の挨拶で「現在ノ我国ハ支那事変ノ処理ト世界ノ動キニ対処シ新秩序ノ確立ニ邁進セネバナラナイ時デアリ…国家公益ノ為ニ私利私欲ヲ極度ニ抑制シテ行ク事ガ必要」であること、「北千島ノ鮭鱒漁業ハ国民ノ食糧品トシテ軍需品トシテ将来又第三国向輸出品トシテ極メテ重要」であり、この重要漁業を維持するためには、「資源ノ確保ト経営ノ合理化トニ充分ナル考慮ヲ払ハネバナラナイ」こと、具体的には「出来得ル限り必要資材ノ節約ヲ図リ労力ヲ最小限度ニ止メ而シテ最大ノ生産ヲ確保スル為ニ漁場ノ整理統合ト漁獲物利用改善トニ努メネバナラズ」、現在254個の漁業権を統合することが緊要であることを訓示している(「北日本漁業株式会社設立準備及経過関係資料」斎藤栄三郎所蔵文書)。この時期の北千島の定置漁業では、母船式蟹漁業を独占した「日本水産」が、昭和13年4月、北千島定置16か統をもつ傍系の合同漁業(昭和6年、北海道の鰊漁業者を合同して設立)と北千島合同(缶詰)に西出悌二(14か統)を加えて、北洋水産株式会社(資本金500万円)を設立し、北千島の定置漁業への進出を企てていた。 これまで定置漁業には傍観者的立場をとっていた日魯漁業は、ライバル企業日本水産の進出に対抗するため、13年3月、すでに設立されていた大北漁業(資本金40万円)を買収すると同時に、個人漁業者18名を吸収して、新たに大北漁業株式会社(資本金300万円)を設立した。新会社は日魯漁業の全額出資で、代表取締役は真藤慎太郎、取締役には堤清治郎、近江清太郎らが就任した。北海道庁による統合勧奨は、多数の漁業権を集中した日魯漁業1社を核とする合同案であり、日魯漁業は単一企業合同の実現に奔走した。しかし、単一の合同に反対してきた林兼商店とその直系の択捉水産の同意が得られないまま、16年2月、北洋水産とその他3企業(東邦水産、北海道漁業缶詰、帝国水産)が大北漁業に合併し、北日本漁業株式会社(資本金2290万円)が新設された(『日魯漁業経営史』)。林兼商店と択捉水産は、昭和18年、戦時経済統制下の水産統制令によって強制的に日魯漁業に合併されるまで、12か統の定置漁業の経営を続けた。このような林兼商店などの反対はあったものの、険悪化する日ソ関係の下で、日魯が北洋鮭鱒漁業を全面的かつ一元的に統制することができたのは、満州事変に始まる十五年戦争の拡大と共に、日本産業が軍需優先の戦争遂行のための統制経済に組み込まれていく時代の風潮をうまく利用したこと、こうした社会環境の変化に適応させる形で、日魯漁業とその系列企業群を、農林・外務官僚との連携を保ちつつ、北洋漁業全体を統制する巨大な企業集団に作り上げた、平塚常次郎社長をトップとする経営幹部のリーダーシップと政治的手腕によるものであった(『北洋漁業の経営史的研究』)。 |
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