通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第3章 戦時体制下の函館
第3節 統制下の北洋漁業
2 北千島鮭鱒漁業の統合

北千島鮭鱒漁業移管問題

北千島水産(株)の発足

北千島鮭鱒定置網漁業の合同

北千島鮭鱒定置網漁業の合同   P1186−P1188

表3−29 北千島鮭鱒定置漁業の推移
年次
経営者数
統数
従業員数
漁獲量
(鱒)
(紅鮭)

昭和9
10
11
12
13
14
15
16
17

13
17
22
29
25
26
27
3
2

20
38
60
90
98
112
138
76
62

1,287
2,117
4,076
6,427
7,321
7,964
9,271
5,961
5,493
千尾
19,752
19,716
31,008
59,397
57,530
114,462
15,404
45,332
29,537
千尾
19,311
18,412
24,155
52,538
50,091
109,071
10,894
42,287
25,000
千尾
40
70
743
1,038
1,471
501
417
201
795
『北千島水産業統計表』(北千島水産会)より作成
 北千島には百数十の河川があり、夏季には相当多数の鮭鱒が遡上した。だが、その大部分は鱒であり、北千島の定置漁業では、紅鮭の水揚げはほとんど期待されていなかった。昭和8年に初めて8か統の鮭鱒定置網がたち、鮭鱒20万1437尾が水揚げされたが、その76.4%は鱒で、紅鮭は9.7%を占めるにとどまっていた(表3−29)。ところが、北千島の鮭鱒流網漁船が200隻に制限されたことから、鮭定置に対する関心が急速に高まり、12年には定置網が90か統に増加して、5939万尾の鮭鱒を水揚げした。この年、北洋における鮭鱒の水揚げは、露領漁業が7590万尾、母船式が1000万尾で、北千島が流網と定置網を合わせて8220万尾に達した。そして北千島の中では定置網の水揚げが、全体の70%を占めて流網を圧倒した。漁獲物の大部分が安価な鱒であったが、北千島の定置漁業は業界や行政当局の注目を集めたのである。この後も定置網はさらに増加して、15年には138か統になったが、未曽有の凶漁に見舞われ、水揚げは一気に1540万尾に激減して、定置漁業者は多大の損害をこうむった。
 一方、それまで対ソ関係を気遣い北洋漁業の統制を強化してきた農林省は、北千島の定置網もその統制下に置くため、北海道庁を通じて定置網漁業者の合同を勧奨した。先の北千島漁業行政移管案に対して、反対の意思表明を行っていた北海道庁は、この定置漁業の合同には積極的に乗り出した。15年10月14日、漁業者を集めて合同問題を協議した北千島漁業統制協議会には、戸塚九一郎長官が自ら出席して議長席につき、直接会議の進行に当たった。長官は冒頭の挨拶で「現在ノ我国ハ支那事変ノ処理ト世界ノ動キニ対処シ新秩序ノ確立ニ邁進セネバナラナイ時デアリ…国家公益ノ為ニ私利私欲ヲ極度ニ抑制シテ行ク事ガ必要」であること、「北千島ノ鮭鱒漁業ハ国民ノ食糧品トシテ軍需品トシテ将来又第三国向輸出品トシテ極メテ重要」であり、この重要漁業を維持するためには、「資源ノ確保ト経営ノ合理化トニ充分ナル考慮ヲ払ハネバナラナイ」こと、具体的には「出来得ル限り必要資材ノ節約ヲ図リ労力ヲ最小限度ニ止メ而シテ最大ノ生産ヲ確保スル為ニ漁場ノ整理統合ト漁獲物利用改善トニ努メネバナラズ」、現在254個の漁業権を統合することが緊要であることを訓示している(「北日本漁業株式会社設立準備及経過関係資料」斎藤栄三郎所蔵文書)。この時期の北千島の定置漁業では、母船式蟹漁業を独占した「日本水産」が、昭和13年4月、北千島定置16か統をもつ傍系の合同漁業(昭和6年、北海道の鰊漁業者を合同して設立)と北千島合同(缶詰)に西出悌二(14か統)を加えて、北洋水産株式会社(資本金500万円)を設立し、北千島の定置漁業への進出を企てていた。
 これまで定置漁業には傍観者的立場をとっていた日魯漁業は、ライバル企業日本水産の進出に対抗するため、13年3月、すでに設立されていた大北漁業(資本金40万円)を買収すると同時に、個人漁業者18名を吸収して、新たに大北漁業株式会社(資本金300万円)を設立した。新会社は日魯漁業の全額出資で、代表取締役は真藤慎太郎、取締役には堤清治郎、近江清太郎らが就任した。北海道庁による統合勧奨は、多数の漁業権を集中した日魯漁業1社を核とする合同案であり、日魯漁業は単一企業合同の実現に奔走した。しかし、単一の合同に反対してきた林兼商店とその直系の択捉水産の同意が得られないまま、16年2月、北洋水産とその他3企業(東邦水産、北海道漁業缶詰、帝国水産)が大北漁業に合併し、北日本漁業株式会社(資本金2290万円)が新設された(『日魯漁業経営史』)。林兼商店と択捉水産は、昭和18年、戦時経済統制下の水産統制令によって強制的に日魯漁業に合併されるまで、12か統の定置漁業の経営を続けた。このような林兼商店などの反対はあったものの、険悪化する日ソ関係の下で、日魯が北洋鮭鱒漁業を全面的かつ一元的に統制することができたのは、満州事変に始まる十五年戦争の拡大と共に、日本産業が軍需優先の戦争遂行のための統制経済に組み込まれていく時代の風潮をうまく利用したこと、こうした社会環境の変化に適応させる形で、日魯漁業とその系列企業群を、農林・外務官僚との連携を保ちつつ、北洋漁業全体を統制する巨大な企業集団に作り上げた、平塚常次郎社長をトップとする経営幹部のリーダーシップと政治的手腕によるものであった(『北洋漁業の経営史的研究』)。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ