通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||||||||||||||||||||||||
第3章 戦時体制下の函館 北千島鮭鱒漁業移管問題 |
北千島鮭鱒漁業移管問題 P1183−P1185 北千島の鮭鱒流網漁業が本格的に開始されたのは、昭和9年の沖取鮭鱒漁業の大合同以後のことであり、太平洋からカムチャツカ西岸の河川に入る鮭鱒の大群が北千島周辺海域を通過することが発見されたことによる。それまで露領漁業と沖取工船漁業は、農林省の直接的監督の下におかれていたが、北千島の漁業行政は北海道庁の所管とされてきた。北海道庁では、前述のように、資源保護と過当競争を抑制するため、流網漁船を200隻、缶詰工場を22ラインに制限してきたが、漁獲量と缶詰生産量は急速に増加して、昭和11年以降、紅鮭の漁獲尾数では、北洋漁業全体の24から30%、缶詰生産量では30%を越え、母船式漁業に匹敵する生産を挙げるようになった(表3−26・27)。
北千島ハ水産業ニ行詰マレル北海道官民ガ不断ノ努力ト幾多ノ犠牲ヲ供シテ開発シタルモノニシテ我等道民ニ在テハ唯一ノ残サレタル新漁場ニ御座候然ルニ嚢ニハ北洋漁業統制ト称シテ露領漁業ガ日魯漁業ニ合一セラレ続イテ強大ナル圧力ノ下ニ沖取漁業モ亦此会社ノ支配下ニ隷属セシメラレタルガ如ク更ニ三タビ我ガ北千島鮭鱒漁業ヲ日魯会社ニ併呑セントスル野望ヲ蔵シ虎視眈々タルハ天下衆知ノ事実ニシテ該漁業行政権移管ノ如キハ畢境之ガ前提ニ外ナラズ候…露領漁業第一回ノ併合ニ依テ生ジタル失業者ハ沖取漁業ノ発見ニ依テ漸ク活路ヲ得タルガ幾許モナク農林省ノ強制ニ遇ヒテ之ヲ取上ゲラレタル為業者ハ転ジテ北千島ニ安定ノ道ヲ見出シタルモノニ候然ルニ又々併合ニ依リ之ヲ奪取サルルニ至ラバ業者ハ何処ニ行キ何ニ頼ツテ其生業ヲ営ムベキカ失脚スルモノハ多数漁業者タリ利スル者ハ一日魯漁業会社ノミナルニ想到スレバ実ニ重大ナル社会問題タルヲ覚ヘ候 つまり、移管に伴う集権化が、結果として北千島の鮭鱒漁業に対する日魯漁業の完全な支配を招き、再び、中小漁業家の仕事の場が奪われることになるという危機感が示されていたのである。この移管問題は、北千島水産会その他関係業界団体の根強い反対に押され、農林省は、ひとまず移管を断念して、北千島鮭鱒漁業の管理を、中央の意向通りに実施するという前提の下に、北海道庁に委ねることにした。結果的に反対運動は成功したことになった。しかし、このことによって道庁や業界団体は、北千島流網漁業の企業合同の検討に迫られることになった。こうして北千島鮭鱒流網漁業の統制問題は北海道庁の手で処理されることになり、翌12年1月15日、北海道庁の斡旋で、関係者が参集して「北千島鮭鱒流網漁業統制懇談会」が開かれ、合同の実施案が検討された。当時合同案については、缶詰工場と流網漁業者を一本にまとめる「大合同案」(日魯派)と、現状の缶詰工場を単位に工場と所属漁船を合体させる「小合同案」(反日魯派)があった。10月25日に開催された2回目の会合で、北海道庁は、農林省の意向をくみ、缶詰業者と流網業者が一丸となる大合同案を提示した。しかし「大合同」と「小合同」両派の意見の一致をみることなく、最終的には、11月3日、当局の強硬な説得で、「小合同」派は押さえられ、北千島鮭鱒流網漁業の大合同案が容認された(「戦時体制下の水産業」『日本水産年報』昭和13年、水産社)。 |
|||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |