通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 函館製網船具(株) |
函館製網船具(株) P1149−P1150 第2次世界大戦前までの経営は昭和6年から11年までと、12年以降とで様相を異にする(表3−11)。6年は世界的不況の中で商品の暴落、資金固定、現金取引主義による需要の減退で販売の減少はさけられず、加えて函館の特殊的需要であったソ連の漁業用品の買入が減少し、また支払条件が長期化したので従前の例に反して取引を謝絶している。露領漁業も不振の年であったので売上高は激減した。創業以来はじめての無配で、一部工場の作業停止、従業員の解雇があった。翌7年は中国の排日運動による海産物需要の途絶や農業の凶作があったが、為替関係による貿易の好転があり、道内海産物価格の上昇がみられ出した。この年のソ連との取引では、対露輸出組合内に漁網部会を組織して全国同業者を結束させ、受注の公平な分配を図ったため、売上の増加があったし、露領漁業も50万石を上回る漁獲であった。そして8年は露領漁業に新興の沖取りと北千島が加わり、道沿岸の鰛漁業の豊漁があって、売上は前年より5割余も増加した。しかし同業者間の競争は激甚で利益率は低下している。本州からの業者のほかに、市内の同業者には日本漁網、木島商店、日魯漁業台町製網所があった。この年は創立20年に相当するので積立金を繰り入れて記念配当を実施したが、実質は赤字である。 9年の大火では新川町、松風町の工場が全焼して損害額約56万円であった。しかし亀田工場の稼働で補い、新川工場も早く復旧し、出漁時の供給にあわせることができた。北洋漁業は露領定置、沖取工船、北千島の流網漁業ともに殷賑をきわめ、沿岸の鰛漁業もまた好況であり、販売額は大いに増加したが、大火の被害で利益率は伴わなかった。また漁網部とならんで鉄工部では、硫黄釜と魚粕圧搾機の売上が順調に伸びている。10年は北洋漁業の需要は旺盛、ただし沿岸の鰛漁業は大不漁であった。この年の生産額は370万円(『函館産業大観』)にのぼっている。11年は北洋方面の漁獲は豊漁、鉄工部の売上も順調であったが、販売競争は激甚で利益率は低下している。そして、この年の1月に常務取締役の末富孝治郎が亡くなっている。 昭和12年からは戦時統制経済に入り、営業報告書には特筆することがなくなってくる。 綿糸、マニラ麻の配給統制は厳しくなり、新興の鮭鱒流綱漁業に需要の膨張したラミーは軍需原料として全くの途絶となり、仕入に多大の苦心を払っている。物資動員令の下で営業の縮小はさけられなかった。しかし北洋漁業は国家的使命を有する事業であるとして、資材の重点的配給を受け、政府の規制と保護の下に13年から18年までは10%の配当を継続している。この頃、岡本康太郎はリーダーシップをとって、全国760名の製網業者を組織化し、統制会社である日本綿漁網製造を設立している。 |
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