通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第2節 戦時体制下の産業・経済
2 戦時下の工業
1 戦時下の諸工場の動向

北海道護謨工業(株)

函館船渠(株)

浅野セメント(株)北海道工場

大日本人造肥料(株)函館工場

函館製網船具(株)

浅野セメント(株)北海道工場   P1146−P1148

 昭和6、7年の生産高は5年を下回り、職工数も300人台にまで減少したが、この7年に大正11年の第1次増産計画に続く第2次の増産計画がたてられた。第3工場の建設である。理由は北海道セメント時代に創設の第1工場の老朽化、ズリ(細かく砕かれた石灰石)利用による原料原価の低減、ペロセメント(短期間に高強度の出る寒冷地および急ぎの工事用)の生産、同業各社の増産計画に対する自社勢力の維持であった。日本セメント百年史によると、昭和7年頃からの満州ブームでセメント需要が旺盛になったとあるが、昭和6年の浅野セメントの販売数量に占める輸出比率は19.3%、国内全社の輸出比率は14.7%であった。
表3−9 浅野セメント北海道工場の動向
年次
製品数量
価額
職工数

昭和5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
トン
157,554
139,355
139,683
172,331
223,829
259,486
239,675
244,976
252,605
269,110
278,499
268,100
238,753
246,645
210,356
85,043

3,325,000
3,550,000
3,920,000
4,480,000
5,819,580
5,968,178
5,514,963
5,713,733








421
321
308
298
290
305
317
340







製造数量は『日本セメント七十年史』より引用価額、職工数は各年『道庁統計書』より作成
 資金約300万円を投じた第3工場はデンマークのスミス社製の回転窯1基を備えた新式湿式製造法によるもので、8年10月には完成した。6か月の試運転後、セメント連合会は月産能力1万2460トンと査定した。第2工場と合計すると生産能力は月産3万8540トンとなり、浅野セメントでは門司に次ぐ大工場となった。表3−9によると9年以降20数万トンの生産が19年まで続いている。9年になって生産されたペロセメントは北海道、樺太、東北、北陸までが採算的供給範囲であり、気温的諸条件と合致して販売網の北進が果された。工場生産量の15−20%を占めた。生産量のピーク時の昭和15年の従業員数は、社員90人、工員427人、採鉱場鉱員153人(峩朗および桜岱)であった。なお、俘虜労働が18年63人、19年63人、20年61人と70年史に記録されている。
 製品の輸送と石炭の搬入のために、工場の前方の海浜に私設桟橋が、また上磯駅から工場まで引込線が設置されていた。また峩朗鉱山からは石灰石と粘土の輸送のために、6.8キロの長さの専用電気鉄道が敷設された。17年には函館港湾が設立されたので、船積荷役作業を同社に委託した。函館支店は港に面した鶴岡町にあって、販売・輸送の業務を行っていた。19年に道内の士別町にセメント工場が建設されたので、それまでの北海道工場を上磯工場と改称することになった。地元の上磯町史によると、本町経済の首位を占めるセメント事業は財界不況に随伴して6年には事業を縮小したが、15年には好況と記述している。そして町民税の賦課額では、18年1000円(日魯漁業600円)、19年900円(日魯漁業550円)とトップであり、町民税総額の3割弱を負担している。またこの工場の設備投資や資材の発注先は函館の事業所が多く、経済的なつながりは大きい。
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