通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 函館船渠(株) |
函館船渠(株) P1144−P1146
長く続いた不況期には、日本勧業銀行の借入による設備の不揃いの改善と増強に努めたが、本州のような工業地帯に立地する造船所とは異なり、外注も容易でなくほとんどを自社内で製作せねばならぬ事情があり、仕上げ工場から機械、鋳物、製材工場(自社所有の山林が道内にあった)など12部門の各工場を構内に備えていた。このうち8年には製鋼用電気炉を新設して、大物を除いて自給できる体制をとったことは、その後大いに有効であった。 地元との関係では、露領漁業の出漁準備の工事(八木本店の船舶工事債権2割を切り捨てたことがある)、セメントや人造肥料の製造機械、魚糧(フィッシュミール)乾燥機械、市電の鋼製車体など橋梁を含めて陸上工事があって本業の船舶修繕工事の不振を補っていた。 国内では海運・造船不況の対策としてとられた船質改善事業により、新造船注文が続出したのは8年の下期からであった。古船淘汰、整理により修繕船工事の減少を憂慮したが、むしろ増加してきた。加えて軍需品注文が次第に地方工業に波及して一般産業界に好況が訪れ、道内では鉱業、製鉄、精糖など各社の事業拡張と新設工事が進んだので、陸上部門の受注が増加したのである。そして、昭和10年にはシャムから油送船の注文があり、11年8月には1850トンの「サムイ」号が竣工してタイヘ向かったが、シャムからは優秀船と認められている。この年は創立40周年であったので、「四十年史」の刊行があり、記念事業を終えた川田豊吉社長は30年にわたる堅実経営により安定した社業を後進の大塚巌専務に渡して勇退した。12年には物価騰貴につき生活費補助として、常用工には10銭、臨時技工と日雇人夫には5銭を支給、また応召従業員に特別支給するための内規を制定している。生活費補助は13年に2回目が実施されている。 13年には、工事用の酸素使用量の増加があったので、高熱工業(株)を出資・設立して酸素の供給が行われた。前述した大正9年に設立の函館酸素(株)は昭和10年頃に帝国酸素鰍ノ吸収されており、競争相手となっている。 戦時経済の下で各地からの要請もあって進出した事業をみると、12年に室蘭船渠(株)の設立に参加し、14年には同社と合併して室蘭工場とするが、諸設備を拡張して17年には1万トン収容の乾船渠を竣工している。小樽工場も20年には開設して、函館から浮船渠を回送して操業をはじめていた。また、17年初頭には営業報告書(第92回)によると「南方占領地造船所経営ノ委嘱ニ応ジ既ニ多数職員並ニ技工ヲ派遣シ…」とあって、マニラに造船所を建設している。沈没引上船や破損船の修理をし、200トンの戦時標準船の建造もしたが、戦局の悪化により大半の従業員が戦没したとのことである(「函館船渠百年史編さん室資料」)。 昭和15年に大塚巌社長の勇退という事態があった。これは東京の森財閥(森コンツェルン)と大阪の岸本吉左衛門ならびに伊藤忠兵衛両財閥が函館船渠の業績に注目して、川田および安田系の株式の過半を取得して、森財閥の一方の代表者である富永能雄(日本曹達(株)副社長)を社長に推挙したことによるものである。昭和15年3月31日付けの「函館日日新聞」が、「推移を注目される函館船渠の改組 中央資本の進出顕著」という見出しで報道している。この後、会社資本の増資は16年、18年、20年と行われ、資本総額6000万円(払込4500万円)となって敗戦を迎えた。軍との関係は、従来海軍の準管理工場であったものが、17年に正式に海軍管理工場に指定され、全従業員は徴用とされた。さらに19年には海軍大臣より第1次軍需会社の指定を受け、富永社長は生産責任者に選任されている。艦船の修繕工事をはじめ、海軍省の諸船舶の新造や戦時標準船の建造が大量になされて、船舶輸送力の飛躍的増大という急務に応じたのである。空前の大量建造のピークは19年であったが、20年の従業員は4000人といわれる。したがって、16年以降の陸上工事はほとんど無くなっていた。 |
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