通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 日中関係の悪化と中国人 |
日中関係の悪化と中国人 P1059−P1060 清朝が崩壊したあと中国国内は混乱し、日中関係も様々な局面をむかえるようになる。張作霖の亡き後、昭和4年6月3日、日本は正式に南京の国民政府(蒋介石)を承認した。それに先立つ同月1日の孫文移柩祭に際し、函館でも商工会議所と海産商同業組合の主催で霊柩奉安遥拝式が挙行された(昭和4年6月2日「函新」)。日貨排斥などで日中貿易も打撃を受けてきたが、国交の回復とともに経済関係の進展にも大きな期待がかけられたのであった。函館にとっても対中国貿易は重要な位置を占めていたのである。しかし、昭和6年9月、いわゆる満州事変の勃発により、貿易は途絶した。この時に函館にいた中国人は総勢158人で、呉服行商23人、海産商8人、店員17人、料理人8人、毛皮商5人、毛皮職人9人、その出身地方別は福建省、江蘇省、浙江省、山東省、広東省等とされている。神戸に本店を持つ海産商の函館支店2軒が撤退したのを除き、その他には特別な動きがないという(昭和6年9月30日「函新」)。昭和7年に入ると1月に上海事変が勃発、3月には「満州国」の建国宣言があったものの、それでも中華民国と日本は国交断絶をせず外交関係を保っていた。 さて、国民政府は在外公館の維持費に困難を来し、そのため外国からの輸入品に領事送状制を採用し、手数料を徴収する計画を発表した(9月1日より実施された)。これに対し、当時副董事であった潘蓮夫は横浜領事館の分館を設置し、専任の書記生を配置させるよう要望した(昭和7年6月1日「函毎」)。これにより中華民国横浜総領事館函館弁事所(管轄区域は北海道と樺太)の設置が実現したのである。日清戦争で閉鎖されて以来となる中国の領事館であり、凌曼寿領事と黄大維通訳官が任命され、昭和7年11月1日に開庁した(同年11月3日「函毎」)。 昭和8年に函館市の主催による対支貿易振興座談会が催された。中国側からは凌領事、営業者として潘蓮夫、張定卿、張海(梅)圃、劉清海、任懐寳、劉僕が出席した。潘蓮夫以外は大正・昭和期以降来任した新顔の海産商のようである。この場で函館市側は対中国貿易が函館市にとって重要な位置にあることを述べ、横浜領事館の弁事所を廃止し、領事館への昇格運動を行うことが満場一致で採択された(昭和8年11月9日「函新」)。このあと昭和9年の対中国貿易が好調だったこともあり、函館市長名で正式な陳情書を提出するに至ったが、実現はしていない。 昭和11年、領事に交替があり、新任弁事所副領事として羅集誼が着任した(昭和11年7月13日「函日」)。これを1つの契機に、函館の中国人に新しい動きがみられる。彼らの出身地は多様化し、言語や風習の違いから、他所にはないほど交流もなくまとまりを欠く社会となっていたという。呉服商側はこれまで前領事に比較的冷遇されたので地位向上を求めようとし、また海産商側は経営不振から「中華会館」の維持が困難なのでその負担を軽くしようとして、函館在住全中国人の統一親睦団体結成の機運が盛り上がったのである。 こうして昭和11年9月5日、新たに「中華商会」が発足した。この挙式には55名が参加したが、そのうちわけは、領事のほか、海産商は潘蓮夫ら6名、毛皮商は陶承麟ら10名、呉服行商は陳必挙ら29名、その他が9名である。この時議長の潘蓮夫が北京語でした挨拶は、日本語で呉服商林孝新に伝えられ、林はこれをさらに福建語で伝えた。また副領事の挨拶は南京語だったので、海産商と一部知識階級意外には通じなかった。まさに交流のない社会を象徴しているようである。なお中華会館の維持については、海産商と呉服商側が200円ずつ、毛皮商が100円を負担することで合意がなったものの、日本の官憲は今後円滑なる発展は望み難いと報告している(「外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂 中国人ノ部」外交史料館蔵)。 |
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