通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 中華会館の設立と政変後の中国人社会 |
中華会館の設立と政変後の中国人社会 P1056−P1059
これは名称からすると三江公所から一歩進めて、地域の中国人全体を包括する意識のもとに建設されたようである。この頃の在留中国人の構成は新聞によれば「清国人七十名の中海産商は四十名内外」(明治44年11月30日「函毎」)と、海産商以外の人々が4割に達していた。とはいえ、残存している帳簿類(斯波義信「函館華僑関係資料集」『大阪大学文学部紀要』32巻)から少なくともその維持運営にあたっての中心的な役割は、海産商が果たしていたことは明らかである。例年旧正月を祝って中華会館で祝宴が行われているが、新聞記事にある名前も海産商ばかりで、実態は「三江公所」的色彩を色濃く残していたようだ。それは後年になっても同じで、大正14年に「支那建築の典型的な中華会館」(大正14年12月5日「函新」)と題されて次のようなことが記されている。 …(中華会館は)寺でも神社でもなく日本で言えばまづ公会堂の様なもので、その隅に暖閣と言うお社の様なものゝ中へ形式的に神が祭ってあるので、神官も僧侶も 居る訳ではなく普通この会館は煎鼠や鮫の鰭の取引やその他の商談をするのに用ひられる ところでこの建物は当時の中国建築の特徴を残す、日本で唯一のものとして知られている。建築にあたっては本国から技術者が連れてこられ、資材や内部の調度品も本国から調達された。「神戸中華会館が一応全国に寄附を仰ぎ、しかも三江、広、建三の富商が多数後援した状況と異なり、函館の会館は、極少数の函館海産物商が中心となり、しかも規模内容の立派さにおいて優に神戸に匹敵する建物を造った点で特筆すべきもの」(前出「在日華僑と文化摩擦」)という高い評価があるが、これは当時の人々だけではなく、現在まで維持してきた函館の中国人全体を賞賛するものであろう。なお関帝廟ともいわれるように、ここでは関帝(関羽)を奉祀しているが、その起源は「明治三十二三年頃在留清国人は上海より関帝の分霊を奉遷して崇信し居たる」(明治43年12月8日「函毎」)と、ほぼ三江系海産商の独占期にあったことがわかる。
この辛亥革命の動乱期に海産貿易は幾分影響を受けたようだが、その後横浜の2商店が新たに出張所を開設する(大正4年7月16日「函新」)など、順調な回復ぶりをみせた。 この隆盛期の大正5年に、函館の中国人の重鎮的存在であった張尊三が帰国した。張は日本政府から藍綬褒章を授与されるほど影響力のある大人物であった。北海道経済への貢献が表彰された理由である。しかし函館には依然彼の子息や女婿などが店舗を構えており、撤退というよりも世代交替が行われたと理解できるのである。 |
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