通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 日清・日露戦争と条約改正の影響 |
日清・日露戦争と条約改正の影響 P1054−P1056 明治25年に、船見町40番地に清国領事館(明治29年の大火で焼失)が置かれ、初代領事として黄書霖が着任した。その背景には明治20年頃には函館の昆布輸出の約90%が中国人に占められていた(『函館市史』通説編第2巻)という事実があった。日清戦争直前に函館にいた中国人は、「北海道庁統計書」では50人に満たないが、数百人という規模に達していたと記しているものもある(明治28年「巴港詳景函館のしるべ」)。正確さは別としても同時代資料だけに、これだけの印象を与えるほど存在感が大きかったものと推測できる。しかし明治27年の戦争勃発により、函館の領事は在留3年目にして引き揚げ、その時大勢の中国人も一緒に退去したのである。政府は同年8月に在日清国人保護を勅令で公布し、残留する人々に登録をさせて証書を交付した。同28年1月末では北海道全体でわずか38人が登録を受けていただけであった(同年3月27日「北毎」)。
欧米商人との関連で述べれば、日清戦争後はハウル商会が残っているだけだったが、依然強い結び付きがあったことが窺われる。明治31年発行の地図にも、仲浜町のハウル商会所在地に「清国人居留地」と書き込まれているし、次のような新聞記事もその一端を物語っている。 …函館仲濱町「ハウル」商社は、毎年本道出の昆布を買占め之れを清国上海又は香港へ輸送し、莫大の利益を得来れるが(中略)…本年は此昆布業を一層盛に営業する筈にて、夫々同社内に居る支那商人に資金を貸与せりと この問題に対し日本政府は制限雑居というかたちで決着をつけた。結局、居留地外では政府が許可した特殊な技術なしではその居住・営業を認めなかったので、以降の中国人の職業構成が偏ったものになったとの指摘がある(伊藤泉美「横浜における中国人商業会議所の設立をめぐって」『横浜と上海』)。 では函館はどうであっただろうか。意味合いは違うがここでもこの時期変化が起こりつつあった。はじめに海産商をみてみると、この頃にはかつての広東省や福建省出身者が見当たらなくなり、明治35年には確実に10軒の海産商全員が三江系であったことがわかっている(『殖民公報』明治35年第10号)。そしてこの年11月には、ウィルソンが持っていた同徳堂の地権が、同徳堂代表者張尊三に譲渡されている(前出河野常吉資料433)。この一件は、中国人商人がハウル商会から独立したことを意味するのではないだろうか。 またもう1つの大きな変化は、呉服行商など従来いなかった職業の人々が、この頃流入してきたと思われることである。はっきりと年代の特定はできないが、明治34年には海産商以外に料理店を営む陳礼梁、呉服行商は楊瓊生、楊七弟、林達泉ら3名、パン製造販売の林達広(ただし林達広は明治17年に祥記号の店員として名前がある)の名前がある(「函館商業会議所年報」)。彼らの商売は「些々」なものであったというが(『殖民公報』明治37年第18号)、こういった人々はこの後増加してゆくのである。
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