通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係
5 函館の中国人の世界

初期の函館中国人社会の特質

董事の選挙と「同徳堂」の結成

日清・日露戦争と条約改正の影響

中華会館の設立と政変後の中国人社会

日中関係の悪化と中国人

董事の選挙と「同徳堂」の結成   P1052−1054

 籍牌規則は明治8年中には函館にも施行された。この時開拓使は中国人にも総代人の選挙を求めたが、応じなかった。これは彼らの不満の表れではなかっただろうか。
 その後清国からの派遣領事が横浜で業務を開始したのは、明治11年2月で、函館は同年11月、この横浜在留領事が暫時、兼管するということになった。これにより函館在留中国人の取締りなど開拓使が扱っていた事務が移管される手はずになった。そしてここに至ってようやく自ら選挙した総代人が決定したのである。この総代人は「董事」といわれたが、明治12年4月に張瑞文と、永祥が選ばれた。
 この董事が選ばれる前後、その選出母体として「同徳堂」という組織が生まれたものと思われる。現存する資料での初出は明治13年の「華商同徳堂」(「函館駐剳清国董事書類綴」)という表現である。通常、中国人社会では、同郷団体、同職団体、そしてそれを統括する中華会館という順序で団体が結成されるというが、「同徳堂」の性格はいかなるものであったのだろうか。光緒5(明治12)年の籍牌(「函館在留清国人籍牌書類綴」)には21名が掲載されているが、このうち浙江省出身者が12名と過半数を占めている。職種は商店名からみると英国領事館付きの陳南養以外は、すべて海産商である。かりに純粋な同郷意識で組織したとすれば、「三江公所」(三江は浙江省、江蘇省、江西省をさす)を冠したのではないかと思うが、おそらく三江出身ではない半数も意識した同職団体であったとみてよいのではないだろうか。もっとも浙江省出身の商人が有力であったことは間違いない。ゆえに函館からの海産物輸出は彼らの出身地にある港湾、上海向けが圧倒的だったのである。
 次に同徳堂の所在地だが、現存する中華会館のある場所で、旧富岡町3番地である。この地はブラキストン・マール商会が地権を持っていたが、ブラキストンの離函後は明治18年にその後継者といえるヘンソンが地権を引き継いだ。19年の籍牌が現存するが、この地番には「震大号」が存在している(「清国官民文移集」地崎文書)。今のところこの記録より前に中国人が居住していた資料はない。現在中華会館に伝わる「地所貸渡証書」は明治17年のブラキストンへの貸渡証書から始まるところをみると、少なくともこの頃にはここにあったものと推測される。
 ヘンソンの離函後、明治26年になって、屋敷(洋館4棟)ともども同徳堂に譲渡された。しかしその翌年に再びハウル商会の代表者ウィルソンに譲渡されたが、これは日清戦争の勃発と無関係ではないだろう。

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