通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 北洋漁業とロシア語通訳 |
北洋漁業とロシア語通訳 P1041−P1043 一般市民とは違って、漁業関係者はロシア・ソ連とは直接的な接触があり、まずロシア語通訳が必要であった。サハリン島への出漁者は明治13年、「出稼漁業者寄合」という団体を組織し、そこで川村正徳という通訳を採用している(『樺太と漁業』樺太定置漁業水産組合)。同16年、東京外国語学校を卒業したての飯塚陽之助(改姓して鈴木となり、後にコルサコフ領事館勤務)は島の北部にあるロモー地方の漁場に採用されたが、東京函館往復旅費15円と5月下旬から10月下旬までの給料200円という高給が支給されている(佐藤清郎『チェーホフの旅』、「回議書類」函館税関蔵)。ロシア語通訳はそれほど貴重な存在だったのだ。サハリン島への出漁者は年々増加し、収益も大きくなっていったことは『函館市史』通説編第2巻にあるとおりである。そのような状況下、函館では、明治19年5月に私立函館露語学校が開校した。校長兼ロシア語教師は村田甲子郎といい、東京外国語学校で学んだ経歴を持つ。「本校ハ当北海道地方ニ露西亜学ノ要用ナルヲ以テ専ラ該語学ヲ教授シ併テ数学簿記ヲ教授スル所トス」(明治19年「学校設置廃合書類」)と設立の主旨を謳ったが、すぐに閉校したらしい。
…函館の港為るや、露領貿易と沿海漁業との衝に方るも、当時露語に通ずる者甚だ稀なるを以て、君又別に夜学の露語研究会なる者を開き、以て青年子弟を教養す。指導宜しきに適ひ、面話立ちどころに弁ず。通訳の乏しからざるを得て、大いに国家を裨益せるは、蓋し君の功尠少と為さず 一方、函館税関でも漁業貿易を中心にした対露貿易の隆盛にともなってロシア語の知識が必要となり、職員を勉強に派遣したり(明治36年5月8日「函毎」)、あるいは講習会を開くなどするようになった。 明治40年の日露漁業協約締結後は、さらにロシア語通訳の活動の場も広がっていった。明治42年に、「沿海州通訳同志会が「沿海州漁業家ニ謹告/通訳御入用の方は本会に至急御申込あれ/本会々員に告グ漁場に勤務方希望の諸氏は至急申込あれ」(同年4月5日「函新」)と広告を出している。これをみると同業団体といったような組織があったようにも思われる。ただし、この団体に関する資料は他になく、それ以上のことはわからない。その他にも頻繁にロシア語教授の広告が見られる。教師の顔触れも多彩である。元陸軍通訳官寺西準一(明治42年12月3日「函新」)、デンビー商会の通訳加藤一徳(明治43年10月23日「函日」)、元薩恰嗹島漁業組合職員広中政季(大正2年1月20日「函新」)、対露貿易檜枝商店員のニコライ・バウローフ(大正2年12月12日「函新」)といった具合である。ニコライ以外は皆正教神学校でロシア語を学んだものであるのも興味深い。神学校を出たとはいえ全員が神職につけるわけではなかった。函館はロシア語で生計をたてられる町であったので、このような経歴の人々が来函したのであろう。 また、函館の正教会でも大正6年頃からロシア語の夜学がもたれるようになった。内容は、文法、訳読、会話、作文でこの年の講師は白岩徳太郎神父の他に5人の教師がおり、毎日2時間の授業であった(大正6年12月1日「函毎」)。これは非常に盛況であり、ここからは多数のロシア語通訳が育ち、漁場通訳・軍事通訳として活躍した。 亡命ロシア人もロシア語を教えた。帝政ロシアの官吏であったオーブリイ、旧貴族だったというサファイロフらである。また、後述する北洋同志会でも、漁場通訳を対象に旧海軍少佐カラリョフ、旧漁業監督官アルハンゲリスキイらが教師となった。昭和15年からは、北洋同志会が一般市民対象に露語講習会を開き、亡命後日本人と結婚した成田ナデージュダも講師となり、昭和19年まで続けられた。 |
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