通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 査証官の来函とソ連領事館の開庁 |
査証官の来函とソ連領事館の開庁 P1036−P1038 さて、国交はまだ回復していなかったが、大正12年、当時東京市長だった後藤新平とソ連全権代表ヨッフェとの間に合意ができ、同年と翌年には函館にソ連から査証官がやってきて、査証の発給を行った。露領漁業問題は、国家レベルでも緊急課題として扱われていたことがうかがえよう。函館には査証官の他に、同12年中にソ連の機関としてツェントロ・ソユーズの日本支店が進出していた。漁業資金調達のために日本の仕込商人や銀行との関係を確立するためであった(A・T・マンドリク『ロシア極東漁業の歴史』)。大正14年の新聞広告では「漁業用物資及食料品其他ノ輸出露領産漁獲物及穀類ノ輸入販売」を業務とし、代表者はスィリードフ、営業主任は日沼重蔵となっている(同年4月5日「函毎」)。大正14年1月、日ソ基本条約が調印され、両国の国交が回復した。函館市ではこれを祝って2月11日の紀元節に大々的な祝賀会を開いている。当日の祝賀会場公会堂には約600人の来会者があり、市中在住の7名の「露国人」が来賓として出席した(大正14年2月15日「函館市公報」)。この7名はもちろん「ソ連人」であり、主に漁業関係者たちであった。また市中では商工連合会主催の提灯行列が練り歩き約5000人が参加した。
その他のソ連の通商機関や漁業貿易機関の函館支部は2章5節を参照してほしい。これら機関の職員は家族を連れてきており、昭和6年には子弟のための幼稚園が開かれていたことは興味深い(昭和6年4月19日「函日」)。 社会主義国家と体制は変わっても函館は様々な関係を持ったが、この時代を象徴するエピソードを一つ紹介しておこう。昭和7年にソ連の強制収容所から脱走を企て、北海道に漂着した人々の顛末である。新聞によれば、彼らは南ロシアの海岸から、ウラジオストク市内の収容所に送られたという。そして漁業労働に従事していた時、21名が2隻の川崎船で脱走を計ったのであった。結局1隻は宗谷にもう1隻は増毛に漂着し、最終的には函館に護送されてきた。 ソ連領事が身柄を拘束したが、抑留しておく場所がないため、水上警察署内に保護された。この新聞報道がなされるや、彼らに同情が集まり様々な差し入れが行われ、「北海道露国移民協会」のメンバーや、東京の「亡命露人協会」が救済運動を展開した。また市内在住の白系ロシア人は深夜ハリストス教会に助命の祈願を捧げたというが、そのかいもなく、彼らは函館にきておよそ3週間後の、11月19日、ソ連のトロール船でウラジオストクに送還されたのである(昭和7年10月31日「函日」、同年11月2日、10日、21日「函毎」)。彼らのその後については「消息はたと絶ゆ、死刑は既定の事実」(昭和7年11月29日「函毎」)との報道があるのみである。 |
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