通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第8節 諸外国との関係 亡命ロシア人たちの暮らし |
亡命ロシア人たちの暮らし P1038−P1040 ロシア革命により、祖国を捨て亡命した人々は、函館にも幾許かの足跡を残している。在留外国人数を見てみると、大正7年からロシア人が増加していることがわかり(『函館市史』統計史料編)、この頃から流入が始まったものと思われる。史料上ロシア人(「ソ連人」も含む)の数がピークに達するのは昭和5年で、116人だが、亀井勝一郎によれば、一時は、400〜500人近くにもなったと語っている。漁業を通して極東の港湾と結ばれていたことが、この流入の一因であろう。函館にある程度痕跡を残している人をあげれば、帝政時代の軍人や官吏、漁業家などがあげられる。しかし大多数は貧しく、名前もわからない人々で、いつ来ていつ出たのかすらつかめないのである。パンやラシャ(毛織物)を売って歩く姿が象徴的であった。 彼らの住まいは元町の正教会を囲む一帯、それに湯の川が多かった。函館で一生を終えた人は少なく、皆どこかへ去っていった。大正後期に結成された「北海道露国移民協会」という団体があったが、結成時には資金があったので、上海やアメリカに亡命させる旅費は不自由なく、何十人となく旅費を恵んだのだという(昭和7年11月1日「函日」)。 ところで、函館にはソ連系の人々もいたので、この人々と亡命ロシア人とには反目があったという。 …「赤」がものを買ふ店では「白」は絶対に買はぬ。「白」がものを買ふ店では「赤」は絶対に買はぬ。同国人でありながら街で出会ふと彼らは激しい眼でみあった(前出「白系ロシア人」)。
ところで、ソ連の新経済政策下、函館の亡命ロシア人の中にはソ連国籍を取得した人々がいた。彼らは、当時成長著しい国営漁業会社などでその手腕を発揮した。しかし、その後再びソ連国籍を放棄した人も少なからずいたようである。当時、彼らも含め「不帰国組」と呼ばれる人々がいたらしい。日本の官憲は、ロシア人に対して実に注意深い観察を続けており、白系を装いながらもソ連体制の支持者もいれば、ソ連国籍を取りながらも反体制的な者もいるということを報告している(「同前」昭和5年版)。こういった事情は、思想的な問題もあろうが、仕事の限られた函館あたりでは、いかに生き延びるかという切実な問題が絡んでいたとも思われる。 一方、亡命ロシア人の中には、宗教上の理由から独自のコロニーを形成している人々がいた。旧教徒と呼ばれる人々がそうである。彼らの宗教的特異性、函館での生活ぶりについては、中村喜和氏の「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」(『地域史研究はこだて」17号)に詳しい。彼らは他のロシア人とは交渉がなく、ほぼ自給自足的生活を営んでいた。銭亀沢の当時団助沢と呼ばれたところと、湯の川にも彼らの一団が住んでいた。日本でこのコロニーが確認されているのは、今のところ函館だけである。 ところで、こういった亡命ロシア人にとって日本は永く住める場所ではなかった。昭和に入ると長期的不況で仕事はないし、生活様式、習慣の違いも大きかったであろう。函館も例外ではない。漁業を通じて経済レベルではロシア・ソ連と深い関係にあった函館だが、一般市民の意識は、低かったらしい。日魯漁業の外事係牛谷功によれば、「ソヴェート・ロシヤとは最も深き関係のある函館、其の函館に住む一般人はあまりにそれを知らなさすぎる。…何故ソヴェート・ロシヤを知らなければならない理由があるか、それは因縁浅からぬ国であるからとお答する。隣国を知る事は必要である」と記している(『北洋』第7号、昭和10年)。通訳、その他若干の知識人を除けば、函館市民とロシアの接点は、せいぜい亡命ロシア人の売る黒パンやラシャを買う程度であったのだろう。隣人としてロシア人に親しみや尊敬の念を抱くようでもなかったらしい。明治以来、日本人が抱いてきた西洋人のイメージと異質なロシア人は、例えば、洗練されていないというような偏見のほうが強かったように思われる。翻って今日、ロシアとの交流の歴史を語る上で、函館にロシア文化の影響を見いだせないのは、まさにこういった点につきると思われる。 |
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