通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

1 大正デモクラシーと教育

4 実業教育

実業教育の改革

庁立函館商業学校の教育

庁立函館商業補習学校

函館工業学校の設立と庁立移管

区立函館工業補習学校

函館中等夜学校の設立

函館女子中等学校の設置

区立函館工業補習学校   P663−P665

 開校後日もまだ浅い大正初期の函館工業補習学校を巡る環境は、必ずしも良好なものではなかったようである。
 大正2年3月の第1回修了式に出席した函館商業同志会の小林貞一は、「函館新聞」に寄せた「所感」の中で、修了式への公職者の出席の少ない事実を根拠に、有志および公職者の冷淡さを指摘し、工業奨励の意にかなう所以でないと論じていた。これより4日ほど前に、函館新聞記者は「工業補習学校ノ現状」と題された記事の中で、函館将来の発展は工業にありとの有志の議論があるが、工業補習学校の現状は教育条件が不備で、慨嘆にたえないものであると述べている。現状のままでは、函館から有為の技術者の出ることは覚束なく、函館を工業地となすことも一片の空想に終わるであろうと論じている。大正初期の工業補習教育を巡る諸条件はこのようなものであった。

区立函館工業補習学校(『函工五十年史』)
 しかし、教職員および生徒の努力は日を追うにつれて区民にも評価されたようになった。大正4年には学則を改正し、欧州大戦による国内工業の勃興に対応して学科目の増置を実施している。また講習会、講演会の実施、研究会の実施、展覧会への出品等々があり、学校の評価が次第に高まる契機をなしたようである。工業補習学校の函館区産業振興上の意義が認められるにつれ、大正6年以降独立枚舎建設の議論が起こり、ついに大正9年新築校舎が竣工した。
 大正9年の実業補習学校規程の改正に伴い、翌10年に函館区立実業補習学校学則の改正が行われ、目的として「小学校ノ教科ヲ卒ヘ工業ニ従事スル者ニ対シ工業ニ関スル智識技能ヲ授クルト共ニ国民生活ニ必須ナル教育ヲ為ス」(第1条)ことが掲げられた。また、本校に「本科及専修科ヲ置キ本科ハ更ニ初等科中等科及高等科ノ三科ニ分ツ」とされ、「本科ノ修業年限ヲ各科二ヶ年トシ専修科ノ修業期間ヲ各科六ヶ月」(第5条)とすることが定められた。学科課程は、「中等科ノ学科ハ建築科、機械科、応用化学科、電気科、家具科、造船科及土木科ノ七科トシ高等科ハ建築科、機械科、応用化学科、電気科及土木科ノ五科」とすることが規定されている。さらに、「一般実技者ノ知徳ノ向上ヲ計ランガ為メ工業ニ関スル講演会又ハ講習会ヲ開催スルコトアルベシ」(第2条)と社会教育の機能を明確に規定していた。
表2−156 区(市)立工業補習学校生徒数
年度
生徒数
大正4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
昭和1
2
349
252
242
263
245
227
321
279
320
292

337
280
注)『函館区(市)学事一覧』による。
 その後同校は、学制頒布五十年記念に際し、道内からは1校だけ、文部省の選奨を受けることとなり、さらに同13年には、校長が文部大臣より表彰されている。函館における工業補習教育の成果が全国的に確認されたといえる。同校は大正15年の青年訓練所の設置に際して、函館市立工業補習青年訓練所を併設することとなった(前掲『二十五年史』)。函館の商工補習教育は、道庁でも高く評価されていたようである。道庁視学官によれば、大正期の我が国の実業補習教育の状況は、「制度創定以来三十年に垂んとして居るにかゝはらす相変らす不振の状能にある」というのであるが、函館区の大正9年の商工補習学校の状況は、「区の商工補習学校ては函館か一番整って居るやうて現に数万円を投して独立の校舎を建て専任の専門教員の手て経営されて居る何うか他区及町村に於ても此の範に倣って実業補習教育にも金を惜ます注き込んて貰ひたい」といわれるほどの充実ぶりを見せていた。学校関係者の努力、区当局の配慮、区の商工業の盛況、商工関係者の理解と支援等々多くの要因が、商工補習学校の拡充に影響を与えたのであろう(表2−156参照)。
 商工補習学校の充実は、函館区の特色をなしていたといえる(『殖民公報』第27号、大正9年11月)。
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