通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展 2 日ソ漁業条約成立後の日ソ漁業関係 ソ連漁場の日本人労務者 |
ソ連漁場の日本人労務者 P592−P595 誕生後間もないソビエト政権は、社会主義経済建設5か年計画に基づき極東漁業の積極的開発に乗り出すことを決めた。しかし、当時のロシア極東漁業は全く未発達で、特に海上の漁業労働に習熟した労働力を確保することが極めて困難であり、当初は多数の日本人労務者を雇用していた。先に挙げた極東国営漁業建設10年計画には、「一九二六年度ニ於ケル日本労働者数ハ総数(四三一四)ノ二八・七パーセントナルモ極東ニ海上漁業ノ為訓練セラレタル露国労働者ノ欠如セルコトハ茲数年間モ亦漁業企業ニ対シ日本労働者ヲ省クコトヲ許ササルヤ明ナリ」として、海上の漁業労働者に習熟した労働者が確保できない間は、日本の労働者は不可欠であること、しかし「此ノ情態ヲ脱スルニハ海上漁場ニ於ケル仕事ノ為極東ノ露国労働者ヲ漸次ニ教育スルニアリ…之ニヨリテ日本労働者数ヲ漸次減少スルコトトナルヘシ」として、自国漁業労働者の育成を図って、逐次自国の労働者に切り替え、極東漁業の自国化を図ろうとしていたのである。 これら日本人労務者は、6月から10月まで沿海州やカムチャツカに渡り、ソ連の国営、あるいは個人漁場で働いた。職種は漁夫と雑夫に分かれ、漁夫は海上の漁撈作業に当たり、雑夫は漁獲物の製造加工作業に従事した。労務者の出身地は、漁夫が北海道の渡島、桧山、後志の漁村地帯であり、雑夫は青森、秋田、岩手東北3県の農村地帯であった。昭和3年における労務者の出身地は、総数4816人のうち、北海道出身者が56.1%、青森県出身者が26.5%となり、両者で82.6パーセントを占めていた(「極東露領沿岸ニ於ケル漁業関係雑件」外交史料館蔵)。 出身地における労務者の職業は、昭和4年の北海道庁が実施した調査によれば、表2−121にみられるように、「漁業被雇」が62.6%で最も多く、次いで函館市内居住の「工場・自由労働」「その他・無職」が11.8%、「農業」が5.5%である。「漁業被雇」の大部分は道南漁村地帯出身の季節的出稼労務者とみられるが、このうち大船頭、機関士などの役付・技能職員には函館に居住する者が多く、一般漁夫でも職を求めて前述の地方から函館市に来任する者も少なくなかったようである。昭和8年には、函館市内出身の労務者は1100人を数えている(昭和8年3月23日付「函毎」)。後に述べるように、ソ連漁場労務者の雇用問題は、函館市にとっても大きな社会問題になるのである。 日本人労務者の雇用先をみると、昭和3年には、総数4818人のうち、53.3%(2567人)が国営企業に雇われている。中でもカムチャツカ両岸に多数の漁場をもつ国営アコ会社が1762人(36.6%)と最も多く、次いで、西カム沿岸に漁場が集中しているリューリ商会が1449人(30.1%)の日本人漁夫を雇っていた。また、この年、初めてソ連の蟹工船が出漁しているが、これには517人の日本人漁夫が乗船していた(表2−122)。
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