通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 6 倉庫業の変貌 2 主要営業倉庫 及能倉庫 |
及能倉庫 P538−P539 及能倉庫は、明治17年函館で畳刺職から出発し、質屋業、雑貨販売業を営んでいた及能仁三郎がその養子の2代目仁三郎の助力を得て、明治42年及能合名会社を設立したことから始まる。資本金3千円、社員5名。大正元年豊川町の土地1039坪を買収、煉瓦倉庫567坪を建設、営業倉庫を1年間直営した。大正2年、この豊川町倉庫を黒江弥太郎に数年賃貸、その後、田端某に賃貸した。大正15年、賃貸していた倉庫を再び直営、この豊川町煉瓦倉庫の隣に鉄筋コンクリート建252坪、上屋176坪を建設した。昭和13年倉庫証券発行許可。堀割で艀が、戸前に乗り入れ、手作業により倉庫荷役をした。貨物は昭和12年をとると、昆布、塩、海産肥料、塩魚、乾魚、魚油、豆類。堀割と煉瓦倉庫との間隔は2間ぐらいしかなかった。 荷役は北日本番屋に、佐野組などが詰め、人足を集めて行った。馬車番屋は、北村組。倉庫と契約し、倉庫の半天、または海産商の半天を着て作業した。作業は、艀が戸前に着くと、歩み板を渡し、肩荷役で、先に検数(看貫(かんかん))を受け、マンボウという木札を受け、貨物をモッコで運び庫内で積付をした。積付には、はしごを使った。モッコの外に猫車(ねこ)、バラ物はモッコ、パイスケを使うこともある。 当倉庫の専属の番屋は北日本番屋といった。20人はいた。馬車番屋は、馬を持っていた。番屋はバラック、壁なしで、着替、食事、休憩をする処である。番屋には帳場がおり、机を置いて帳付をしていた。 |
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