通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|||||||||||||||||||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 投資活動 |
投資活動 P412−P415 さて函館の経済人は自己の営業基盤に立脚した上で様々な投資活動を行っている。それが結果的に資産形成との結び付きをもたらした。資産運用としての投資は、株式などの有価証券の所有や不動産などの土地所有などが考えられる。前者については最も顕著な例として地場銀行への投資があげられる。地場のトップ銀行である百十三銀行の役員である杉浦嘉七、相馬哲平、石館友作、渡辺熊四郎らは、同時に上位の株主でもある。これらは彼らにとって資産運用の一形態を意味するものであった。とりわけ相馬哲平の場合でみると、大正元年には1001株所有して第2位であるが、同族の市作、堅弥の分を合わせると1558株となり一躍トップに躍り出る。大正7年の増資時には、相馬合名会社が2366株、相馬哲平が2002株、市作1000株、堅弥600株、省3500株、ムツ400株、確郎200株と上位1、2位を独占するとともに一族では6700株余と他を断然引き離している。これに渡辺一族が続いている(『百十三銀行営業報告書』)。 このほかに函館を本社とする大手会社として函館水電、函館船渠、日魯漁業、函館製網船具、北海道セメントなどがあげられるが、明治44年時点でみると所得税納税者の上位48名のうち23名がそれらの株主として名を連ねているほか、百十三銀行の上位株主には11名が確認できるように一定の地場企業への株式投資がみられる。しかし固定資本とみなされたこれらの企業への投資には必ずしも熱心であったとはいえず、やや消極的な投資にとどまっているようだ。むしろ前述した相馬の例にみられるように大手上場企業の株式投資への関心が強かったように思われる。株式以外では国債への投資も大きく、例えば大正8年の日銀の調査によれば函館の国債所有は700万円という巨額であり、これは全道一であったという(大正8年10月17日付「函毎」)。 土地投資に関しては、函館の宅地が資産運用の対象となったために、土地集積を図るものがいた。相馬哲平や渡辺熊四郎がその典型である。彼らは営業の一形態に不動産業をとりいれるようになった。明治43年時点での函館区地主会のメンバーのなかには、翌44年度の高額所得税納税者上位48名のうち相馬、渡辺のほかには工藤嘉七、平出喜三郎、小熊幸一郎、杉浦嘉七、亀井邦太郎の8名が含まれている(酒谷家文書「函館区宅地主会報告文」市立函館博物館蔵)。前2者を除くと、彼ら地主層は本業としての不動産所有ではなく副業的な側面が強いと思われる。 またよく言われるように、北海道は本州資本による土地投機が盛んに行われた地域であるが、函館の経済人はどの程度関与しているかと言うと、農地所有は大正9年の「五十町歩以上所有大地主調査」によれば該当者はわずか27名である(表2−45)。このうち100町歩以上は10名であるが、相馬哲平が断然他を引き離している。しかも相馬をはじめ泉合名会社、松岡陸三といった比較的規模の大きい土地所有者は、いずれも「金貸業」である。ここには金貸業者が土地抵当による資金貸付をした結果、農地の集積をみたということがいえよう。 昭和3年における100町歩以上の山林所有者は函館は43名であり、金森商船、松岡陸三、相馬合名会社が上位を占めている(表2−46)。さらに昭和15年では50町歩以上の大地主として函館は23名(35か所)で、この年は相馬合名会社が12か所を占めており、全道的にも不在地主として傑出した存在であった。しかし函館の経済人の一部は不在地主となったものの道内の他都市に比べると、その比重は小さい。これは函館の立地や都市機能といった点、すなわち小樽や旭川と異なり農産物の集散市場ではなかったことや農地への投資意欲がさほどなかったことのあらわれとみることができる。資産運用上の土地所有と積極的な土地経営は相馬や渡辺に限定されている。彼らは明らかに土地所有による不動産経営者としての側面も合わせ持ったからである。さらに相馬は農地や山林の投資にも積極的であったが、他の資産家で土地所有者は資産保全といった要素が先行したものであろう(佐藤正広「資産家と地主」『産業化の時代』下 所収)。
|
||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |