通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 明治末期の有力経済人 |
明治末期の有力経済人 P405−P407 前述のとおり本巻が対象とする時期の最初のものは、明治39年調査の所得税納入者であるが、首位が相馬哲平で、ついで渡辺熊四郎、鎌田文助、広谷源治、石垣隈太郎の順となっている。上位50名では海産商の比率が高い。なお『最新函館案内』には有力な海産商(表記は物産商)として元会議所会頭の岡本忠蔵、川名得太郎、橋本正三郎、森本一郎、佐々木忠兵衛、寺尾庄蔵、橋本金太郎、森卯兵衛などを、また漁場仕込・海産物委託問屋として西出孫左衛門、松橋象作、本庄丑吉をあげている。つぎに明治44年における上位国税納税者の一覧を表2−43に掲げた。この表の典拠となる史料は所得税と営業税の納税者を別個に記載しているが、表では合算して上位50名を抽出した。業種別では海運・運送業が10名と最も多く、これに物産商9名、銀行関係者・金貸業が8名と続くが、ほかに米穀商などの各種商業を1つのグループとみなすと13名となる。海産物流通の集散市場という経済力を背景とした流通関係、およびそれを支えた金融界が傑出していること、また函館が一大消費地であるとともに道内・樺太などを商圏とした商業者の力量の大きさも反映されており、この表にはそうした函館の特徴が良く表れている。個人別でみると1位の相馬哲平および2位の相馬堅弥(後に2代哲平となる)が桁違いの金額である。田中正右衛門や杉浦嘉七などのように前の時代から中心的に活躍した経済人も依然として健在であるが、小熊幸一郎や小川弥四郎、平出喜三郎ら次の時代を担う人々の登場がみられ、また新興勢力として浜根岸太郎、前田利一などの船主層がこの頃には地歩を固め始めている。また港湾機能の重要さを反映したものであろうか、宮崎松太郎、斉藤重蔵の2名の艀業者がこの中に含まれていることに注目しておきたい。大正元年では斉藤は40余艘の艀を持ち、陸揚人夫、艀船夫、仲仕合わせて300人余り使用しているほか千島汽船(株)と日高汽船(株)の取締役、函館造船所の重役を兼ねている(『富の函館』)。宮崎のほうは大正3年には艀45艘、船夫仲仕200人余を使用(大正3年『函館商工録』)しており、ともに大手艀業者ということになろう。そのこともあり2人は函館運送艀業組合の組長(宮崎)、副組長(斉藤)を勤めていた。 ところで大正元年刊行の『富の函館』には物産商、酒造、呉服太物、米穀の各組合は強固であるとしているが、それはこれらの業種が、函館において経済的な優位性を示すということを物語っており、前掲の表がそのことを端的に示している。このころの業態はどのようになっているかというと明治44年に設置された函館商工組合連合会に加盟したもので掌握できよう。前記の組合を含めて43あり、日用品を扱うものとして和洋小間物商、金物商、紙商など、漁業生産に係わるもので魚網商、縄筵商など、その流通を担う肥料問屋、海産商、貿易商、海陸物産仲立業など、港湾に関連しては運送艀、船主同盟会、通船等であった。このほかに露領沿海州漁業、水産、択捉漁業、樺太建網漁業水産といった生産者の団体があったが、組合人員の総数は6142名に及んでいる。
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