通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 大正5年の資産家 |
大正5年の資産家 P407−P412 明治40年『最新函館案内』には、有力業種のなかに「財産家」という1項目をたてて渡辺熊四郎(初代)、相馬哲平(初代)、杉浦嘉七の3名をあげている。これは地方の資産家としての位置付けが確立した時期と読み取ることができよう。
また資産家も前時代から引き続いて資産蓄積をなしてきた旧有力商人(相馬、渡辺、西出、久保等)と、この時期に急成長してきたグループ、いわば新興の資産家(小熊、松田、浜根、日下部等)とに二分される。また比較的海運に関係した業者が多く、全道的にみても13名が入っているが、これは第1次世界大戦による戦時の海運好況に支えられたものである。 この史料でいう資産とはどこまでの範囲を指すのかは凡例がないため厳密さに欠けるが、相対的な資産家の位置を表現したものとみて構わない。おそらく各個人の土地や公債・株式の所有、船舶、経営する業態の資産評価などによりランク付けしたものであろう。漁業家の場合であれば漁場の資産評価もこれに含まれる。このほかに運用資金という意味で、とりわけ函館の資産家は漁業仕込みや金貸業を兼ねるものが多く、こうした貸付金も含まれていると考えられる。この表に関して相馬と小熊についてふれておこう。 首位の相馬哲平(初代)は、この時点では相馬合名会社の代表社員であるが、元来、金銭貸付業を中心に海陸物産委託問屋として堅実な経営を行っていた。明治36年の『北海道案内』では、仲買、海陸物産、肥料委託販売業と紹介され、函館市街の宅地・貸家所有では第1位であり、しかもそれらの多くは枢要の地にあり、さらに広大な耕地を各村に持つとある。この中では金貸業という文言はないが、「衆私かに称して相馬銀行と云ふ」との記述からうかがえるように銀行に匹敵する金融業と位置付けられている。また、明治40年の『最新函館案内』にも営業種類の「金貨業」の項で相馬は金銭の運転ということでは銀行も及ばない勢いであると評している。さらに大正2年に日本銀行函館支店が調査した『函館ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』によると、相馬は漁業仕込者を含む金貸業者のなかで貸付見込高300万円とあり、群を抜いた存在であった。相馬の金融業は一般の貸付である商業金融と漁業仕込みとの両面を有していたが、貸付に当たっては地所抵当金融が多くを占めていた。地所抵当の貸付は貸し倒れの損失を防ぐということで取られたわけであるが、同書は「相馬哲平ノ富ヲ致セルモ主タル原因は実ニ此レニ在リ」と述べて自己の潤沢な資力を効率的に運用した結果、副次的に土地集積に結びついていったことが分かる。資産形成の一面を示すものであるが、もちろんそれが土地集積の全過程を表したものではない。これとは別に不動産業的な経営による土地への資本投下もありえたと考えられる。実際に相馬哲平の資産運用についての方針は不動産、有価証券、現金(預金・貸金)の3分野を偏らないようにしたという指摘もあるからである(相馬確郎著『朝提灯』)。なお相馬の土地集積過程については『函館市史』都市住文化編の「函館の近代都市空間形成の素描」で詳しく論述されている。 相馬は不動産でいえば市内の宅地のほか道内や出身地である新潟の田畑、宅地に、また貸金も市内をはじめ道央まで拡大し、漁業融資でも道内一円にとどまらず樺太、露領方面へも行うようになる。有価証券類は国債を中心に地場の銀行や函館船渠といった諸企業や北海道拓殖銀行、満鉄、朝鮮銀行、台湾銀行等の上場企業に及んでいる。また自己資金を中心とした運用をしているが、明治42年には日銀からの個人融資を認められる存在となった。それは相馬の資産家としての信用の高さを示すものである。もっとも相馬側では経営の基本はできるだけ借り入れを少なく自己資金で運営するということもあって、日銀との関係も所有する国債を換金する債券市場が函館にないため、国債を担保として借り入れしたに過ぎないとして借金という認識は希薄であったようである。また相馬は大正7、8年ころに市内の海運業者へ船舶抵当の融資も行っている。戦後不況に遭遇した債権者が償還できずに抵当として引き取った船舶の維持費で200万円以上の赤字を出したが、これだけの欠損が出ても、相馬の経営基盤は盤石なくらい資産形成がされていたという(同前)。
一方、4位の小熊幸一郎の場合は漁業家の典型な事例ということができる。彼はこの時点では小熊商店の店主という立場であるが、大正5年の例でいうと、商店部(海産物委託販売)、漁業部(漁業直営・樺太、露領)、漁業出資部(漁業仕込・樺太、露領、択捉)、船舶部、財産部(土地建物)、倉庫部、合資部(金銭貸付)、金利決算部(有価証券)の8部門に事業を区分している。彼の場合は各部門に投資する配分は漁業の比重が非常に高く、また船舶の転売により大きな利益を出している。ちなみに、同年の営業成績をみると各部をあわせた利益金は43万円に及び、このほかに船舶売却益で100万円となっている(小熊家文書・大正5年「日誌」)。また資産は6年1月時点で動産不動産は23万円、株式18万円、貸付・出資金13万円、船舶360万円その他合わせて533万円にも上っている。これで分かるとおり船舶部分が最大のものである。なお株式所有は地元のものはなく大阪商船の100株をはじめ満鉄、大日本化学など上場された大手に限られている(同前・自明治38年「貸借対照帳」)。 小熊は当初は海産物委託販売から出発し、日露戦争の勃発寸前の状況のなかで樺太の漁業権利を獲得した。戦後に南樺太が領有化されると漁場の優先権が認められ、西海岸3個所、東海岸6個所の漁場で本格的な漁業を展開することになった。樺太は豊漁が続き、さらに露領へも漁業経営を展開した。また早くから海運にも着目し大型汽船の投資により海運好況にも乗り大船主の面も合わせ持った。漁業仕込みも比較的早く取り組み、樺太漁場へのかかわりも函館の樺太漁業家への仕込みを行っていたことが有利に働いたと見ることができる。
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