通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 食料品工業 |
食料品工業 P104 この期で工場数の最も増加したのは食料品工業である。表1−34で示すように、大正5年には2倍をこえる増加となっている。
醸造 P104−P105 酒類は10工場たらずで横ばい、醤油・味噌の工場は若干の増加であった。清酒の醸造量は7000石台で一定、醤油では佐野工場の脱落した分を大正初年から挽回し、,000石台となった。味噌は30数万貫で横ばいである。価格の上昇があったので、酒類の販売額は50万円をこえ、区内移入品合計の2、3万石のうち区内で消費される約1万石の兵庫・大阪からの銘柄品および越後の大衆品と競合した。3000石を産出する丸善菅谷商店は区内よりも道内や樺太へ販売する方針であったし、小森酒造店も樺太へ販路を伸ばし、地酒の品質の向上があった。一方、醤油、味噌はそれぞれ10余工場で製造額は20万円をこえた。味噌では金久宮崎工場で速成法がみられた。 菓子 P105−P106
なお、区内には食パン製造の精養軒、養和軒、和菓子の千秋庵、風月堂、万年堂があった。これらの店は東京から菓子職人を招聘し、また道内各地から見習いに多くの徒弟が来函している。函館の菓子製造業の有利な点は、菓子材料では砂糖以外の麦粉、澱紛、大小豆、飴、餡が道内で自給できること、販路では北洋漁業従業者の巨大な需要があることであった。菓子材料を供給する菓子種業者は、五香、岡部、砂子、本間などの数工場で1馬力の電動力を使用している。また動力使用は製粉業にもみられ、澱粉、蕎麦粉、黄粉、白玉粉などの菓子種の製造も含めた数工場が、第1次世界大戦による需要の急増にこたえていた。そして製粉業の発展につれて、蕎麦、うどんの製麺所も大正7年には4工場となった。 精米業 P106 前述の東洋一の規模といわれた函館精米(株)(表1−35参照→函館船渠(株))は本州からの移入米が玄米から白米へと転換が進んだことにより、本州移入白米との競争上の不利に直面し、明治44年には資本金を10分の1の1万5000円に減資、さらに大正4年には4000円に減資して組織変更をしている。その一方で、1〜3馬力程度の動力を使用して店頭で精白する米屋が増加し、大正7年には少数の精麦業も含めて50工場となった。同じく零細規模でも動力を使用した業種には、蒲鉾と豆腐の製造業がある。蒲鉾は明治末期の3工場が大正7年には27工場に増加、豆腐も大正7年には7工場(『函館区統計』)となっている。 刻昆布 P106 日露戦争前の食料品工業では、醸造と刻昆布が主力であった。この期に入って刻昆布は、醸造と同じく工場数は横ばいである。販売先は中国向けが主で、在函の清商を経由する清商の請負形式であった。大正2年には清商の支配から脱するために、資本金1万円の函館刻昆布製造(株)を設立し、その成果は「組合員ハ会社ノ資金ヲ流用シ又ハ原料ノ供給ヲ受ケ製造ニ従事シ支那商人トノ関係ヲ絶チタリ茲ニ於テ価格ノ如キモ著シク騰貴セリ」(『産業調査報告書』第13巻、北海道庁)と報じられている。大正8年からは、中国の日貨排斥運動で販売額は減少した。缶詰 P106 日露戦争時に軍の需要で販売額の急増した缶詰製造業は、佐々木工場のほか季節的繰業の1、2軒のみとなり、みな缶詰製造と缶詰、塩干物販売の兼業形態であった。 |
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