通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 商業会議所の活動 |
商業会議所の活動 P89−P92 最後に、明治28年から昭和3年1月にいたる33年間の函館商業会議所の活動をみよう。まず注目されるのは、毎年のように関連する官庁への建議や意見書の提出を行なっていることである。今『函館商工会議所六十年史』(昭和31年)所収の年表により、その状況をうかがってみよう。 たとえば明治37年の日露戦争開始時には、塩の専売実施は漁業経営の基礎を危くするとの理由で、漁業用塩の価格半減方を当局に陳情し(1月)、翌38年には、北海道と中国との重要港湾間定期航路の開始方や(5月)、日露漁業協定に伴なう権利の平等、河川漁業の認可区域、土地使用権について建議した(11月)。なお、この時「樺太定期航路開設方小樽商業会議所と協力要請して実現せしむ」と『函館商工会議所六十年史』は記しているが、その実現にあたっては、次のような事実があった。 すなわち、同年9月1日の会議所の第5回臨時総会において、この問題に関わった常議員の豊島三策は次のように報告している。「樺太定期航路問題に付八月十一日秦常議員と共に出発上京の途に着き、日本郵船会社と前後数回交渉の結果、一旦小樽に決定したる仝定期航路問題は遂に第三回目、即ち九月一日の航海より函館を起点とすることに協定変更し、尚当局各省を訪問し、仝問題建議書提出の理由を開陳して仝月廿七日帰函せり」(『函館商業会議所月報』第30号、明治38年9月)。このように、ライバル小樽との競争に打ち勝っての定期航路の実現であった。これについて地元紙は、樺太航路の基点地が函館となるのは、既往の歴史からみても、また将来の関係からしても、むしろ当然のことだとした。そして一度会社が定めた基点を、強いて函館に変更させた秦氏らの労をねぎらい、函館のためにまことに喜ぶべきことだと書いている(明治38年8月22日付「函新」)。
大正5年6月、青森港の連絡設備の不備による滞貨輸送方について意見書を提出したのを皮切りに、同9年にも同様の要望を関係機関に行ない、同11年には、松前鉄道の完成と本州北海道連絡航路問題について、鉄道当局の諮問に答申している。このような函館商業会議所の動きは、大正14年8月1日の青函航路の貨車航送開始まで続くのである。 なお会議所では、この貨車航走開始を記念して共進会を開いている。 さらに函館商業会議所では、地域の商工業振興のために大正2年より物産品展覧会を開催し、あるいは、木工品の進歩発達に資するため、同4年、東京職工学校より講師を招いて指物、彫刻、塗料の講習会を開いている(同7年にも、2週間にわたって木工伝習所を開催した)。 なお、函館商業会議所の活動は、以上のような国内にのみ向けられたものではなかった。会議所の海外への関心は当初からみられ、明治36年5月、岡本忠蔵会頭、辻快三副会頭らは清国、韓国、ロシアのウラジオストクなどに約3か月間の視察旅行を行ない、詳細な報告書を残した。とりわけ、海産物輸出との関連で中国に目が向けられ、大正13年には、上海に海産物協同販売所の設置方を建議し、翌大正14年12月、同地に海産物貿易調査所が開設された。 このように、道内外に及ぶ函館商業会議所の活動拠点となる所屋の建築は、重要な課題であった。明治40年の函館大火で事務所が類焼したこともあって、大正10年、古くからの議員でもある物産商小熊幸一郎から、渡道35年記念として会議所所屋建設資金5万円の寄付を受け、同11年より鉄筋コンクリート造りの新所屋建築に着手、翌12年に完成し、6月より函館公会堂内の事務所を移転した。 そして、3年後の大正15年、函館商業会議所は創立30周年をむかえ、3月21日、東浜町の万世ホテルで記念式典を挙行した。 この時に功労者表彰が行われたが、功労議員には岡本忠蔵や平出喜三郎らあわせて12名が、また旧役員功労者には、遠藤吉平、渡辺熊四郎、松下熊槌、金沢彦作、末富孝治郎、辻快三の6名が選ばれた。
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