通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム50

函館山の自然と道路開発
周遊道路に″待った″

コラム50

函館山の自然と道路開発  周遊道路に″待った″   P849−P853

 長い間、要塞地帯として市民の手から遠ざかっていた函館山であったが(『函館市史』通説編第3巻参照)、敗戦によって開放され、再び身近な存在となった(コラム17参照)。

函館山登山道路の建設現場

函館山に咲いたニリンソウ
 敗戦後は経済復興が求められるなか、あふれた労働者のために、全国的に土木工事による失業対策事業が進められたが、観光都市をめざしていた函館市にとって、函館山は格好の開発対象になった。昭和25(1950)年に御殿山山頂までの登山道路、昭和27年に立待岬から穴澗間を結ぶ路線と、あいついで道路の建設がはじまった。御殿山山頂までの登山道路は、昭和28年に完成し、翌年の北洋博覧会(コラム18参照)を前に急ピッチで舗装工事が進められ、その後、山頂から千畳敷、碧血碑から立待岬などでも道路が計画・着手されていった(市土木部資料)。
 これらの道路の建設が進められるなかで、「観光」か「自然保護」か、といった議論も一部ではなされはじめた(昭和28年6月30日付け「道新」)。
 昭和30年代からは、函館山の植物や鳥類など自然環境に関する新聞報道もみられるようになり、34年には函館山に生育する植物種の数の基礎となる『函館山植物誌』が出版された。同書により函館山に生育する植物は600種以上あり、ミヤマハンノキやダケカンバなどの北方系とブナやハナイカダなどの南方系の植物がコンパクトに混在していることが明らかにされた。植物の多さは、函館山の鳥類の種類の多さにもつながり、戦後まもなくの函館山上空には、一時期多くのワシやタカの類が飛ぶ光景が見られたという(元山階鳥類研究所標識研究室長談)。
 函館山の自然環境の保護は、昭和32年に休猟区、37年に鳥獣保護区、39年には特別鳥獣保護区に指定されたように、その必要性は認識されていた。
 しかし、発破作業を伴う道路工事は、函館山の小鳥類を減少させ、多くの植物群も道路工事の犠牲になるなどの影響を見せるようになる(昭和35年5月10日・6月8日付け「道新」)。
 昭和40年代にはいると、道路建設を巡る議論はさらに活発化する。登山道の建設によって、大量の車が乗り入れるようになったため、新たに駐車場や車の走行渋滞が大きな問題となっていた。その解決策として、山頂から立待岬へと車を循環させるための下山専用道路、「函館山周遊道路」の建設に焦点があてられた。当初、周遊道路の建設は失業対策事業として進められたが、昭和42年には公共事業に切り換え、本格的に「5年計画で開通」されることが決まった(昭和42年8月17日付け「道新」)。これによって昭和44年までに千畳敷までが完成し、翌年11月から残りの部分の建設もはじめられていた。
 道路の建設工事によって山肌は土砂が露出し、排出された土砂もそのまま放置されるなどひどい状態であったという(当時市立函館博物館友の会会員談)。また、登山道付近では、車の排気ガスや騒音による被害も深刻となっていた。「函館山の自然をこわすな!周遊道路に″待った″自然保護協会」、などと報道され(昭和46年10月16日付け「道新」)、この頃から自然保護運動の高まりを背景に周遊道路への反対運動が活発化していった。その後、この活動は函館山の自然を守る運動に結びついていく。

周遊道路反対運動を伝える各誌
 周遊道路に「待った」をかけた南北海道自然保護協会(以下、協会)は、道路建設のすべてに反対したわけではなかった。破壊を最小限にくい止めようと「御殿山から台町火葬場方面に整備してほしい」との代替ルートを提案していた(昭和47年3月24日付け「読売」)。協会側は、千畳敷から立待岬に至る道路予定地には「植物学上、貴重な種類が多く残る」ために反対していたが、西部方面へ下山するルートについては、「植物の種類が少なく、ササが密生している」ため自然破壊が比較的少なく、既に開発された地域の観光開発は、ある程度容認せざるを得ないと判断していた。これに対して函館市などは、すでに道道に昇格させた経過もあり、立待岬経由のコースの変更は困難との見解を表明している。
 函館山の自然保護に関しては、協会ばかりではなく函館行政監察局からも懸念が示された。市が管理を国から任されて以来、道路や山頂の電波塔建設による「自然環境の破壊が目立つ」というのである(昭和47年4月4日付け「道新」・「朝日」)。これに対する函館市の回答は、「都市公園法によって自然環境の保全に努めている。また、特別鳥獣地区の指定を受けているので、現在の制度で足りる」という消極的なものだった(同47年4月22日付け「読売」)。
 その後、函館市は、函館山における道路建設について、周遊道路建設を含めた基本計画の作成を民間コンサルタントの日本公園緑地協会に依頼した(昭和48年8月16日付け「毎日」)。コンサルタントへの依頼は、協会と意志の疎通が不十分なままになされたこともあって、その後、協会は一切の道路建設反対に傾いていった。
 周遊道路の建設は、昭和46年から中断されていたが、山の自然に悪影響を及ぼす周遊道路は不適当で、函館山の活用方法は、自然を公園として最大限利用することである、とする日本公園緑地協会からの函館山基本計画報告書が提出された(昭和49年5月30日付け「読売」)。これを受けて矢野市長は、「函館山の周遊道路建設は白紙に戻す」、と事実上の建設計画断念を表明することになった(昭和50年3月8日付け「道新」)。
 その後、函館山の真下にトンネルを掘る計画(昭和60年2月21日付け「道新」)や函館山周遊道路建設「論議が再然」(同63年10月29日付け「道新」)と何回か函館山の開発計画が浮上しては消えていった。
 戦後、開放されたあとの函館山の開発や自然保護の経過から、観光客のための山なのか、市民の生活環境の一部としての山なのかを考えずにはいられない。観光開発のために展望台的役割が強調されすぎ、下から眺めることや、実際に山のなかを歩いて自然に親しむといった多様な楽しみ方の場としての役割は軽視されてきた。市民が誇れる山として守り続けることが、市民以外の人にも誇れる山であり続ける。
 函館山の対面に連なる横津連山も開発されているが、函館市に唯一残っている自然河川、松倉川もダム建設で問題となるなど、自然保護の面で格差がみられる。自然環境というと、どうしても函館山に目がいってしまうのは、都市部に隣接し、シンボルとしての意味合いが強いためであろう。(佐藤理夫)

市街からみた函館山(平成2年)

市立函館博物館の自然観察講座
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